標高331m 比髙250m
主な遺構:土塁・石垣・堀切・畝状竪堀群・井戸
アクセス
成羽町の中心街、成羽町美術館裏手にある太鼓丸公園から登る。中腹の太鼓丸を経て鶴首山山頂まで、よく整備された山道が延びている。
星田郷(井原市美星町)を本拠地としていた三村氏は、天文2年(1533)三村家親が成羽に拠点を移し鶴首城を築いたとされる。永禄4年(1561)には毛利氏と結んだ家親が、庄高資の拠る備中松山城を攻め落としてこれに本拠を移し、鶴首城には家親の弟(甥とも)三村親成を置いた。その後松山城は庄氏に奪われるが、元亀2年(1571)には毛利氏の支援を受けた三村元親が松山城を回復している。
元亀3年(1572) 、毛利氏が三村氏の宿敵宇喜多氏と結んだことから、松山城主三村元親が毛利に反旗を翻す。天正2年(1574)11月毛利氏は大軍を備中に送り、各地で三村・毛利両軍の戦い、いわゆる「備中兵乱」が起こる。
この戦いで毛利陣営に加わった三村親成はその功績によって旧領を安堵され、再び鶴首城に配置される。以後親成は毛利氏の備中・美作進攻に加わって行動することになる。
鶴首城は成羽市街の南にそびえる急峻な山に築かれている。 城の遺構は標高331mの山頂部を占める主郭部(「本丸」)と、山頂から北東に延びる主稜線上の出丸(「二ノ丸」)、北に派生する尾根上の「太鼓丸」からなる(案内図参照)。
主郭(1)は一辺20~25mほどの五角形を呈する曲輪で、低い石垣に囲まれる。東北隅には櫓台と見られる基壇があり、その脇に虎口を開く。主郭を挟む2・4郭は主郭東側の帯曲輪でつながり、ここから尾根上の曲輪に向けて通路が延びる。
「二ノ丸」背後の鞍部を抜けて上ってくる登城路はまず3郭に入る。ここから2郭虎口に至る通路は上方の2郭から迎撃可能だし、2郭虎口には1郭隅の櫓台から横矢が掛かるなど、工夫を凝らした虎口と高い切岸によって防御力を高めている。
西斜面側には2段の腰曲輪と井戸跡とみられる凹地などが残るが、遺構は不明瞭だ。炭窯跡も残るから、後世の破壊が進んでいるようだ。
主郭部南端の6郭下方には尾根を遮断する大規模な二重堀切があり、この堀切に隣接して3基からなる畝状竪堀群が刻まれ、これらが城の背後への備えとなっている。堀切・竪堀を見渡す位置にある5郭では、曲輪の側面に削り残しの土塁を備えて防御を固める。
主郭部とは対照的に、背後の二重堀切外側の曲輪群や「二ノ丸」は、いずれも地形に従ってごく小規模な曲輪を階段状に連ねたもの。これらは戦いに際して軍勢の駐屯地として築かれたものか、それとも古い城郭部分が改修を受けず放置されたものだろうか。
参考文献
『日本城郭大系 13 広島・岡山』 新人物往来社 1980年