宮山城 岡山県真庭市上市瀬・髙屋・上市瀬 

別名:髙屋城

標高450m 比髙320m 

主な遺構:土塁・堀切・横堀・畝状竪堀群・井戸?

アクセス

 真庭市落合から久世方面へ向け国道313号を北へ。やがて月田方面に向かう県道390号の分岐する交差点がある。これを左折。1kmほど進むと交差点に宮山城の案内板がある。ここを左折し進んでいくとさらに指示板がある。指示に従って進めばいい。

    

 

 城は東に旭川を見下ろす標高450mの山にあって、北には久世方面、南には市瀬・落合方面を一望に収め、北東方向には旭川を挟んで篠葺城と向かい合う。

宮山城の縄張りについて、元禄二年九月の上市瀬村の書上(『落合町史』所収)は次のように記している。

 

 

 この記録にみえる「横から堀切」は横堀ないし堀切、「立から堀切」は竪堀と思われる。

 上の縄張図と照合すると、「本丸」は2郭を指しているようで、空堀のうち「立から堀切二筋」は2郭南斜面に見える二筋の竪堀。「横から堀切壱筋、長さ三十間、横幅一間半」がどれを指すのか不明だが、恐らく二筋の竪堀の西隣にある堀切(c)と思われる。

 3郭が当城最大の曲輪で、2郭と共に城の中核をなす曲輪である。3郭とその南下方、2段の小郭には井戸跡らしい数カ所の凹地があるが、溝状の窪地 b は横堀のようにも見える。

 

 山頂を占めるのは1郭で、これが「二ノ丸」に当たる。「西当て横から堀切二つ」は西尾根を遮断する二条の堀切。「南北うねに横から堀切」は、2郭から南と北に伸びる支尾根に築かれた堀切で、長さ二十間に及ぶというのは南尾根についての記述らしい。「立から堀切五筋」は、南斜面から西尾根にかけて連なる竪堀群を指し、その数は堀切を延長した竪堀も含めればさらに多い。

 1郭の切岸下に巡らした横堀と、横堀から発生する竪堀群はなかなか見事で、この城一番の見所だ。堀切の両端が竪堀となるものも含め、竪堀は合計9基。最大傾斜の方向に伸びて放射状を呈する畝状竪堀群となる。

 東端の4郭が「三ノ丸」にあたる。東尾根を見下ろす東辺には土塁を盛り、東尾根には「横から堀切二筋」が刻まれている。

 東麓開田からの登城路は虎口受けの小郭 a を経て4郭に入る。虎口に至る道には上方の4郭から迎撃できるし、小郭 a の脇に竪堀を刻んで通路を狭めるなど、工夫をこらした虎口部となっている。この先溝状通路となって尾根筋に連なる小郭の脇を上り、3郭虎口へ向かう。

 宮山城の載る山が急峻な山容であることを反映し、曲輪の多くは小規模で、自然の地形に制約されで歪んだ形のものが多い。南斜面が格別緩斜面ということではないのだが、南斜面に竪堀群が集中することから、南を防御正面とした城といえる。

 

 『美作古城史』によると、宮山城は天正初年頃、宇喜多直家が毛利氏に対抗した時代の築城とし、城番として宇喜多氏の部将小瀬中務・市三郎兵衛の名を挙げる。

 天正7年(1579)毛利と同盟を結んでいた宇喜多直家が離反したことから、両者の戦いが各地で始まる。この頃の状況について、毛利の部将玉木吉保は「身自鏡(みのかがみ)」の中で次のように記している。

 廿三の歳(天正7年)は、例の宇喜多めまた敵になり、備中・作州・伯耆騒動しける間、備中口は隆景様、伯州口は元春様、美作口は直に(輝元が)御発向なされける。作州高田の付城と、備前(宇喜多)より宮山・篠葺・寺畑・岩屋と云う山を向城にしたりけるを、一々に責め崩し、敵ども数人打取ける。

 

 宮山城を巡る毛利と宇喜多の戦いは中断を繰り返しながら続いたようだ。天正9年6月には宇喜多軍の守る岩屋城が落城、篠葺城からも退去したことから、宮山城の守備兵も退去。その後、宮山城には毛利の部将有福元貞・和智元郷が在番している。

「二ノ丸」

1郭切岸下の竪堀群(竪堀群の上端が土饅頭状に見えている)

参考文献

 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年

 寺坂五夫 『美作古城史』 作陽新報社 1977年

 「身自鏡」(『戦国期中国史料撰』 マツノ書店 1987年)

 尾崎蘭青 『落合町史』1972年