袈裟尾城 岡山県高梁市備中町東油野

標高630m 比髙150m   

主な遺構: 堀切・土塁

アクセス

 成羽から県道33号を新見方面へ。県道が成羽川沿いを離れて1kmほど進むと、西山方面へ向かう県道438号の分岐がある。左折して438号に入り、高原上にある重林寺を目指す。城は寺の背後の丘にあり、西側から尾根伝いに登る。

      

 

      

  城は標高500m前後の吉備高原上にある。高原は深いV字谷に囲まれるが、高原上には小さな起伏面が広がり、浅い谷閒は水田、緩やかな斜面には畑と民家が点在する風景が広がる。

 城の載る山は北東ー南西方向に伸びる主稜線から北に向けて支尾根が分岐しており、丘頂を占める1郭は3方向に伸びる尾根に堀切を刻んでいる。

 1郭南下方には土塁囲みの小郭3があって、土塁の切れ目を虎口としているようだ。ここから1郭に上る道も伸びる。1郭の北側切岸下にも類似した帯状の平地がみられるが、こちらは曲輪として整形したものではなさそうだ。

 1郭を囲む堀切のうち最大のものは南西側のもので、延長60mほど。その対岸にある2郭もさらに西に延びる尾根を堀切で遮断。そして堀切面には土塁を盛り、土塁脇に虎口を開く。2郭はしっかりした切岸に囲まれた曲輪ではあるものの、内部の整地は不十分なままで、3つの小さな小削平面に分かれる。

 

 「古戦場備中府志」は鷲尾庄司武久が居城したとするが、詳細は不明。一方備中国の地誌である『備中誌』は鎌倉時代以来代々赤木氏が居城し、天文年中からは平松資直が居城し、備中兵乱に際して三村氏に従って国吉城に籠城したのち、備中松山城で討死したと記す。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより

 

参考文献

 『備中誌』 日本文教出版 1962年

 平川親忠「古戦場備中府志」(『備後叢書』5巻 東洋書院 1990年)