小菅城  岡山県井原市西江原町

標高244m 比髙160m  

主な遺構:堀切

アクセス

 城跡の背後にある青野町はブドウの産地として知られる。案内図に示した葡萄浪漫館から東へ500mほど進むと、道路脇に小菅城跡入口を示す石柱と案内板がある。ここを左折し尾根沿いに進むこと500m、車道終点にある駐車場は既に小菅城跡の中だ。

      

 

 

 江戸中期に編纂された「古戦場備中府志」によれば、小菅城を築いたのは源平合戦の戦場の一つ、屋島の合戦で扇の的を射止めたとして名高い那須与一とするが、那須与一は軍記物と那須系図にしか登場せず、実在の人物かどうかが疑問視されているという。

 ただ、鎌倉時代の建久元年(1190)那須氏は井原市西江原町にある甲山八幡神社を勧請し、東江原町八幡神社を再興したと伝えるし、笠岡市走出の持宝院に伝わる梵鐘は、那須氏が建長3年(1251)頂見寺(井原市野上町)のためにつくったものだという。従って、鎌倉時代のはじめには那須氏の一族が下野國からこの地に移住していたようだ。

 

 井原市の北部は吉備高原の南端部に位置しており、人家や耕地など、主な生活の舞台は高原上に広がる。案内図に見える青野町はブドウの産地として知られた高原の町で、小菅城はその東方、深く切れ落ちた谷間を見下ろす高原の縁に築かれている。

 現在城内まで車道が延びており、アップダウンのほとんど無い高原の道を進んで行くと、いつの間にか城内に入っているという具合だ。

 城の規模は東西200m弱。遺構は中央部の浅い鞍部を挟んで東西の曲輪群に分かれる。西寄りの1郭一帯は良く整形されて城らしい姿を見せるのに対し、2郭を中心とする東の曲輪群は整形不十分で切岸も発達していない、不明瞭な遺構となっている。

 深い谷底から急斜面を登ってきた登城路が東曲輪群の東端に入り、ここから尾根筋の小郭の脇を抜けて2郭へと向かう。東曲輪群の中ほどに築かれた堀切は短く不明瞭なもので、登城路を固めるというものではなさそうだ。設置意図の不明な堀切となっている。

 高原面につながる城の西側は二重堀切で遮断するが、尾根筋を刻むだけで、大きく下方斜面に延びるものではない。このように堀切や竪堀が未発達であり、土塁も主郭背後の堀切面をはじめとして確認出来ないことなど、素朴な造りの城と言える。

小菅城入り口を示す石柱と説明板

 

良く手入れされた主郭。石碑には「本丸」と刻んである

参考文献

 「古戦場備中府志」 (『吉備群書集成』(五) 歴史図書出版社 1970年)

 井原市史編纂委員会 『井原市史』Ⅰ  2005年 

 岡山県神社庁岡山県神社誌』 1981年

 「いばらの文化財」(webサイト「井原市文化財センター 古代まほろば館」)

 笠岡市ホームページより、「持宝院の梵鐘」