養山城  広島市安佐北区安佐町小河内

標高428m 比髙160m

主な遺構:土塁・堀切・竪堀

アクセス

 飯室から広島市青少年野外活動センターを越えて小河内集落に入ると道の右手に養山八幡神社があり、これを過ぎるとやがて三谷口バス停がある。ここを右折し300mほど進むと殿之城神社への道標がある。ここが登り口だ。神社からは北東方向にある山頂に向け尾根を外さないように進めばいい。

            

  

 養山城のある小河内は広島市の北西端にあって、太田川の支流小河内川の川沿いに開けた谷あいの地である。城は小河内中心部の堂原河内を見下ろす標高428mの山頂に築かれており、小河内川の谷を挟んで南方2kmには牛頭山城がある。

 主郭(1)は二つの曲輪がT字形に結合した姿で、規模は東西55m南北45m。主郭周囲は10mを越える急角度の切岸であり、険しい山容とあいまってなかなかの堅城となっている。

   主郭北西隅には高さ1m程の土塁を備え、その下方に堀切一条を入れて背後の丘陵との間を遮断。ここから尾根伝いに北へ100mほど進んだところにも大規模な堀切があり、さらにその中間にも堀切らしい溝状地形も認められる。

 主郭東下方から南下方にかけて腰曲輪2・3郭がある。2郭は自然地形に規定されて歪んだ形だが、曲輪の縁から発生する竪堀群が下方斜面に向けて下ろされ、3郭と間にも2基の竪堀を備えるなど、固い防御施設が印象的だ。

 登城路として古くは東南麓にある養山八幡宮方面からの道が使われていたから、2・3郭のいずれかに虎口が開かれていたものと考えられるが、城道の保存状態が悪く判然としない。

 南尾根を登ってくる現在の道は主郭西側斜面を経て背後の尾根へと通じる。恐らく本来の城道ではなく、後世山仕事のためにつけられた道らしい。この道との接続は確認出来なかったが、主郭南西端の a は深さ50cmほど掘り窪められており、何らかの虎口施設があったのかもしれない。

 

 養山城の由来について『芸藩通志』には、

 牛頭山 養山 並びに小河内村にあり、共に大永年間武田刑部が弟小河内弥太郎これに居る。天文年間滅ぶといふ

 小河内氏は金山城に本拠を置いた武田氏の一族とされ、普段養山城に住み、南方にある牛頭山城は詰の城としていたと伝える。天文9年(1540)尼子軍による郡山城攻撃の際、尼子方についていた武田氏は、尼子軍の敗退ののち大内軍の攻撃を受けて滅亡。小河内氏も運命を共にしたという(国郡志書出帳)。

 養山城の南尾根にある殿之城神社には、城主小河内弥太郎の首が埋められたという伝説も伝わる。

主郭

主郭南下方の二重堀切

牛頭山は奥に見える双耳峰の右側の峰にある(養山城登り口から撮影)

参考文献

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 広島市役所編修『安佐町史』 1977年