井村城 島根県浜田市三隅町井野

別称 井野城 

標高180m 比高60m

主な遺構 堀切・畝状竪堀群・井戸?

アクセス

 三隅町の中心街から東へ、県道304号三隅井野長浜線を進む。井野郵便局前を過ぎてさらに3kmほど進むと道の左手に報恩寺がある。寺脇から神社の前を通って城に向かう道が伸びている。

    

 城は南西に延びる低い尾根の先端部に築かれている。「井村氏誠忠碑」と刻んだ石碑の建つ主郭(1)は鞍部を背にし、これを3段構えの腰曲輪が囲む。

 報恩寺脇からの登城路は両脇の竪堀に遮られて折り返しながら4郭に入り、さらにもう二段の腰曲輪を経て丘頂の1郭に入る。このうち、3郭虎口の窪地は『三隅町誌』では「三段めの曲輪に古井戸」と記すのだが、虎口防御の装置として虎口を狭めているのかもしれない。

 1郭を取り囲んで三段に構えた腰曲輪の周囲はびっしりと竪堀群が取り囲む。城の背後に当たる北東側では尾根を遮断する堀切(a)が、その上方に刻まれた竪堀群と一体化してローマ字「A」の形に。

 南西尾根は3郭切岸下に堀切(b)を刻み、これに竪堀群を並べ築いているが、さらに尾根先端部にも二重堀切(c)と竪堀群を並べており、城の全周がハリネズミような竪堀群で囲まれた城となっている。

 竪堀の数を数える時、問題となるのが堀切の両端の扱いだ。上の縄張図中bの堀切両端は竪堀となって下方斜面に伸び、隣り合う竪堀と行儀良く並んでいる。このような場合、両斜面でそれぞれカウントするとしてー 

 この基準で当城の竪堀数を数えると52基。島根県内では角井城(益田市)に次ぐ数だ。ところが、当城ではこれほどの竪堀群を築いているのに土塁は皆無だ。理由は不明だが、発達した畝状竪堀群を備えた城の中には土塁を持たないものが意外に多い。

 いずれにしても、三隅氏や周布氏など益田氏一族の城には畝状竪堀群を備えた城が多いのではあるが、こんな小さな丘の城に大量の竪堀群を巡らせているのを見ると悲愴感すら感じてしまう。

 

 城主井村氏は三隅氏の四代兼連の弟兼冬に始まる。南北朝の動乱に際して兼冬は南朝方に属した兼連に従って各地を転戦している。井村城の名も南北朝期の戦いに登場しており、暦応五年(康永元年、1342)石見国守護の上野賴兼が吉川氏に対し井村城に出陣するよう命じている(吉川家文書)。

 天文23年(1554)毛利元就は陶氏と断交する(いわゆる『防芸引分」)。翌24年、元就の命によって吉川元春の率いる軍が石見国西部に進攻し、太内・陶方と結ぶ益田氏らを攻撃。同年3月には永安氏の本拠永安城を攻略したのち、木束城・井村城を攻め落としている(吉川家文書) 

 井村城は三隅氏の本拠高城を取り囲むように配置された支城の一つとされ、これらの支城は高城から見通せる位置にあるという。高城の東4.5kmにある井村城は平地のほとんどない山あいに築かれた城だが、下図のように確かに高城の視界に入る。

      

 

主郭

3郭下方の畝状竪堀群

 

kohanatoharu.hatenablog.com

 

kohanatoharu.hatenablog.com

 

参考文献

島根県教育委員会島根県中近世城館跡分布調査報告書第1集 石見の城館跡 1997年

三隅町誌編さん委員会『三隅町誌』1971年

廣田八穂『西石見の豪族と山城』 1985年