竜王山城 広島県東広島市豊栄町吉原

標高460m 比髙60m 

主な遺構:土塁・堀切 

アクセス

 東広島市中心街から国道375号北へ。豊栄町鍛冶屋の宮ノ首交差点を右に折れて県道28号へ入り、まずは吉原簡易郵便局を目指す。郵便局の手前600mほどの所で左折し狭い道に入る。600mほど進めば左手に竜王山城が見える。西側に回り込んで登る。

   

  

 

 城のある豊栄町広島県のほぼ中央、世羅台地の一角を占める。城麓を流れる小川は江の川最上流部であり、城の南側2kmに陰陽分水嶺が迫る。城は北側に谷閒の小平地を見下ろす丘陵端に築かれている。北東に延びる尾根に構えた三段の曲輪は切岸が高くしっかりしており、小規模ながら堅い構えの城となっている。

 尾根先端側を刻む堀切(図中a)は大きく下方斜面に伸びるくっきりとしたものだが、肝心の背後の堀切(b)は尾根を明瞭に遮断するものになっていない。あるいは後世の山仕事による破壊なのか。ここから東斜面にかけて3基の竪堀が刻まれるが、このうち南端のものは一部破壊されているのかもしれない。

 登城路は北西側斜面に付けられていたようで、三段の曲輪を順次経由して主郭へ向かう道が良く残る。 

 

 『芸藩通志』が城主と伝える吉原與三左衛門は、当城の東3kmにある瀬賀山城の城主吉原元種の嫡子とされる。

 吉原氏は駿河国吉原からこの地に移り住んだというが、その時期は明瞭ではない。神村氏書上(『萩藩閥閲録』巻65)によると、吉原元親が天文の頃から毛利氏に従い、その子元種の代には備後国神村に移って神村氏を称している。

 竜王山城は建武3年10月10日、南朝方の小早川七郎・石井源内左衛門入道らの楯籠もった「則光西方城郭」とされる(『世羅郡誌』)。吉原村と中村(現在の東広島市豊栄町吉原・世羅町)が乗満庄と呼ばれたから、吉原の西寄りにある竜王山城が則光西方城郭と判断されたようだ。ただ、現存する竜王山城は明らかに戦国期城郭の姿となっている。

 竜王山(龍王山)の名をもつ城は広島県内では8カ所あって、当ブログで取り上げた「竜王山城」はこの記事でもう4つ目だ。

 ちなみに城館名で最も多いのは「〇〇土居」「土居屋敷」「土居城」で、これが「土井」「土肥」と変化する例を含めれば、県内で64カ所にのぼる。中世において村々を拠点とした土豪の屋敷が「土居」と呼ばれたのだから、これは当然といえば当然なことだ。

 次いで多いのが「茶臼山城」の32カ所で、別称も含めればもっと大きい数になるはず。3番目は「中山城」で、「〇〇中山城」を含めれば13カ所。竜王山城はこれに次ぐ数だ。

参考文献

芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

岡部忠夫『萩藩諸家系譜』 マツノ書店 1999年

世羅郡教育会『世羅郡誌』1971年

広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』1996年

東広島市豊栄町史編さん委員会『豊栄町史』 2008年