標高360m、比高70m(五郎丸城)
主な遺構 土塁・堀切・竪堀
アクセス
吉賀町六日市から国道187号を吉賀川に沿って益田方面に向かう。国道が新坂折トンネル手前の立戸集落に入れば、五郎丸城は国道の左手半島状の尾根にある。立戸手前で左折して吉賀川(高津川)を渡れば、広石城に向かう道(案内図に見える実線の道)がある。

五郎丸城
北流する吉賀川は立戸集落の南で流路を反転させて南に向かう。五郎丸城はU字を描いて流れる吉賀川に三方を囲まれた半島状尾根の北端に築かれている。城は逆L字に折れ曲った尾根に1~4郭を連ねる素朴な連郭式縄張りであり、山腹に築かれているのは3郭下方の小郭だけだ。このうち最大の4郭は南北70m、最大幅20m程の規模。
城の背後に当たる南尾根は三重堀切で遮断するが、下方斜面に大きく伸ばされたものではない。吉賀川を見下ろす尾根先端部でも堀切や竪堀を刻んで稜線を固める。
背後の三重堀切から尾根筋を南へ60mほど進んだところの小ピークにも小郭 aがある。小郭 a は両端に土塁を盛っているが、わずかな削平だけで切岸はみられない。その先には堀切が刻まれているから、南尾根に備えた臨時的な砦か。

広石城
五郎丸城の南200m、五郎丸城を見下ろす位置にある。単郭の城で、曲輪の規模は長軸45m短軸20mていど。周囲は削り落として高さ3m前後の切岸としているのだが、曲輪内は削平不十分で緩斜面を残すから、継続的に使用された城ではなさそうだ。
切岸下には切岸形成時に発生したものと思われる緩斜面があり、竪堀がまばらに刻まれており、南北両側の尾根筋はわずかに掘り切っている。
この縄張りはかつて当ブログで取り上げた竜王山城(広島県東広島市)と瓜二つだ。竜王山城は平賀氏の本拠である頭崎城を大内・毛利軍が攻撃した時に築かれた陣城らしい。縄張りの類似性から当城も陣城と見てよさそうだ。

天文20年(1551)大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、同23年津和野城(三本松城)に拠る吉見氏の攻撃を始めた。陶の別働隊である江良弾正らの軍勢は周防山代方面よりこの地に攻め入り、吉見氏の一族竹内氏の守る指月城(吉賀町沢田)を攻略、次いで上杉五郎丸の籠もる五郎丸城を攻め落としたという(『六日市町史』)。
指月城と五郎丸城を結ぶ稜線上にある広石城はこの戦いに際して築かれた陣城のようだ。城の縄張りに強い指向性はないのだが、強いていえば主郭北側の両斜面に竪堀を下ろしてるから五郎丸城のある北側を意識した城、とすれば陶方の城なのか。
参考文献
廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年
『日本城郭大系』14巻 鳥取・島根・山口 新人物往来社 1980年