内田要害山城 島根県浜田市内田町

別名 内田城

標高109m 比高80m

主な遺構 土塁・堀切・横堀・畝状竪堀群

アクセス、

 浜田市のJR周布駅から周布川沿いの道を東へ。約3km進むと美川小学校があり、内田要害山城はその東方丘陵上にある。南西麓の三家元神社脇から尾根伝いに登る。

  

 城は周布川とその支流内田川に三方を囲まれた低丘陵上に築かれている。西方2kmには周布氏の本拠周布城がある(案内図参照)。

 城の遺構は東西二つの曲輪とそれを囲む堀切・竪堀群からなる。東郭・西郭共に土塁囲みだが、いずれの曲輪も削平は甘く、内部は階段状の数区画に区切られている。

 竪堀群が集中して築かれているのは西郭の北斜面だ。この部分は不明瞭な尾根、というより山腹がわずかに突き出した程度の地形なのだが、ここに築かれた竪堀群と横堀・堀切が何ともすごい。

 西郭北辺の切岸下から順に、①畝状竪堀群 ②横堀(図中a) ③竪堀群(横堀aの両端も竪堀群の一部となっている) ④堀切(図中b)を並べ、四段構えの防御ラインとしている。

また、東郭の北尾根では東西両斜面に竪堀を下ろし、尾根伝いに進攻する敵の動きを制限している。

 

 当城は土塁囲みの曲輪と発達した竪堀群を備えた城なのだが、曲輪の周囲に切岸が造成されている所は、西郭の畝状竪堀群に面した部分などごく一部に過ぎず、多くは未加工のまま放置されている。

 通常、曲輪の周囲は敵の侵入を防ぐために急傾斜の壁面に加工される。これが切岸であり、切岸が高ければ高いほど堅い守りの城といえる。曲輪の縁には要所に防御の楯となる土塁を盛り、さらに曲輪の防御を固めるために、尾根を遮断する堀切をはじめ、竪堀・横堀など様々なタイプの空堀が築かれることになる。

 当城は曲輪内部の整地や切岸の造成よりも、土塁や斜面の防御施設の構築に労力を集中した異色の城となっている。

 

 城主としては内田兵部少輔の名が伝わるが、詳細はわからない。

 西麓には三家元神社があって、その祭神は御神本国兼命・周布兼定命・内兼茂命の三柱(島根県神社庁ホームページ)。

 祭神のうち御神本国兼は益田氏の祖、周布兼定(益田兼季の次男)は周布氏の祖だ。また内兼茂(ないかねもち)も周布氏一族であり、南北朝時代の延元二年(1337)長州賀年城合戦に兼茂の名と「家子内田彦太郎兼家」がみえる(『萩藩閥閲録』巻121-4周布)。内田氏は周布氏につながる人物のようだ。 

要害山城全景

参考文献

 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983年

 『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口』 新人物往来社 1980年

 「三家元神社」.島根県神社庁.https://www.shimane-jinjacho.or.jp/(参照2024-05-20)