大谷城  広島県福山市芦田町下有地

別名 大谷米迫城 上山城 大谷九ノ平城

標高262m 比高165m

主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群

アクセス

芦田町の中央を流れる有地川に沿った県道396号、次いで県道158号を進む。大谷城西側のため池を過ぎたところで左折し、城の南側の谷に回り込む。案内図に示した登り口から谷筋を登る。登り口付近の路肩に駐車可能。

 

 城は有地川沿いの低地を見下ろす標高261mの山に築かれている。城の北斜面側はかつて砕石場であったから、大きく削り取られて遺構の一部が失われている。

 山頂にはほぼ同じ高さの1・2郭が並び立ち、それぞれ腰曲輪を付属させる。東西両端の堀切a・cに面した部分をはじめ、曲輪の周囲は高く急峻な切岸に加工されてくっきりした姿の城となっている。

南西尾根を遮断する堀切(図中c)。左寄りは高さ10mの切岸となっている

 一番の見所は城の背後にあたる東側尾根続きの部分で、尾根を刻む堀切a・bの中間にも竪堀群を築いて3段構えの防御ラインとしている。堀切aの両端も下方斜面に伸ばされて竪堀群の一部となり、ここから北斜面にかけて合計15基の竪堀が斜面を埋め尽くしている。竪堀群を見下ろす3郭は土塁囲み、3郭下の腰曲輪も堀切面に土塁を備えて東尾根を固める。

 『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』に載る縄張図によると、崩落した北斜面にもさらに竪堀群が広がっていたようだ。

 

 大谷城主と伝える有地氏は備後を代表する国人宮氏の一族である。戦国時代には芦田郡上・下有地(現福山市芦田町の一部)を領有して有地を称したらしい。『萩藩閥閲録』有地右衞門家の書上によれば、宮元盛の子美作守高信が初めて有地を名乗り、毛利氏に属したと記す。

 一方、備後国の地誌である「西備名区」は有地氏初代を石見守清元とし、以下隆信・元盛と続き、元盛の代に相方城に本拠を移したとある。

 当城周辺にある国竹城・市迫城・殿奥城はいずれも有地氏の拠った城(案内図参照)。このうち有地川沿いの低丘陵に載る国竹城が有地氏初期の居館跡と考えられている。

 北東側にある殿奥城は、大谷城と同様発達した畝状竪堀群を備えた城であり、「西備名区」は殿奥城を有地氏の本拠、大谷城はその出城としている。

 

 初めて大谷城を訪れたのは30年ほど前のことだった。南側の谷に回り込んで、松枯れによる倒木が折り重なる斜面をよじ登り、何とか土塁囲みの曲輪(図中a)までたどりついたものの、密生する笹藪とイバラで縄張図が作成できないまま撤退したことがある。

 今回訪問してみると笹藪は枯れてかなり歩きやすくなっていた。ただ、城の北斜面側は砕石場跡であり、今も高さ100m超の断崖絶壁となっていて危険極まりない。ご用心を。

殿奥城から撮影した大谷城。北斜面が大きく削り取られている

参考文献

得能正通編『西備名区』(『備後叢書』 東洋書院  1990年)

岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983年

備陽史探訪の会『山城探訪』  1995年

備陽史探訪の会『続山城探訪』 2005年

広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集 1995年