別名 金刀比羅城 琴平城 金平城 打綿城
標高496m 比高150m
主な遺構 堀切・畝状竪堀群
アクセス
「香木の森」のある邑南町矢上から北へ、日和トンネルを抜けてしばらく進むと日和郵便局がある。城跡は郵便局の北東側、金刀比羅神社のある山に城跡がある。案内図に示した登り口から実線で示された道を歩く。徒歩20分ほど。
日和は江の川南方の山中に広がる標高300m前後の小盆地にあり、城はこの盆地を見下ろす急襲な山に築かれていた。城内には金刀比羅神社が鎮座しており、別名金刀比羅城。琴平城・金平城とも表記される。
城は背後に繋がる尾根を堀切1基で遮断し、尾根筋に四段の曲輪を連ねた素朴な縄張りと見えていた。ところが切岸下の藪に入ってみると背後の堀切に並べて西斜面側に4基、西尾根の基部にも5基からなる畝状竪堀群が築かれていた。
石見国の有力領主、吉見・益田・三隅・周布・小笠原・出羽らが本拠とした城は畝状竪堀群を備えた城となっているのだが、当ブログで紹介した三隅高城の出城である鐘ヶ尾城・今城や、邑南町井原の平城など、出城・端城と呼ばれる中小規模の城まで竪堀群が築かれていたことに驚くばかり。
日和城を巡る戦いとしては次のものがある。
天文20年(1551)大内義隆が陶隆房(晴賢)に倒されたのを契機として、石見東部では福屋・小笠原両氏の対立が深まり、天文22年(1553)12月には福屋氏が小笠原氏方の日和城を攻撃。翌年には江の川対岸の大貫でも戦っている。
弘治3年(1557)4月3日、長門国勝山城が陥落して大内氏が滅亡すると、福屋氏と手を結んだ毛利元就は小笠原氏への攻撃を本格化させる。この年5月、吉川元春はまず小笠原長雄の次男長秀の籠もる雲井城(邑南町井原)を攻撃する。
毛利氏は小笠原氏を攻めるには、日和を攻め落とすことが欠かせないと考えていたようで、同年5月には吉川元春の部将杉原盛重の率いる軍が「日和要害」を攻撃している(毛利家文書・知新集所収文書)。
日和城の南側に向かい合う大谷城は、日和城攻撃のため吉川軍の陣城と伝えるから、この戦いに際して築かれたものと思われる。
参考文献
石見町誌編纂委員会『島根県邑智郡 石見町誌』1972年
瑞穂町誌編纂委員会『瑞穂町誌』 1964年