標高230m 比高50m
主な遺構 堀切・畝状竪堀群
アクセス
邑智町井原の井原郵便局の300mほど南から浜田方面に向かう県道7号が分岐する。県道に入って200mほど進んで右折。緩やかな坂を登り切ったところ、右手の丘に平城がある。


城は井原川左岸に広がる低丘陵の東端にあり、井原川の対岸には雲井城がそびえる(案内図参照)。
主郭は長辺が100mほどの大きな曲輪で、いくつかの小区画に分かれる。北端に数段の小郭が付属するものの、単郭の城といえる。主郭北端から小郭の切岸下にかけて竪堀3基が並べ築かれており、これは一応畝状竪堀群と呼べるものだ。
一方、主郭南端は高さ7mほどの鋭い切岸となるが、その下の堀切は尾根部分をわずかに刻むだけで、両側斜面には伸びない。
主郭西側切岸下には帯状の平坦地が広がるが、曲輪として整形されたものではなく、耕地化など後世の土地利用による改変らしい。さらに城の西側に続く丘陵は現在大規模に開墾されて耕地化されている。
『石見誌』によると、城主は小笠原氏家臣の井原丹後守。東方の雲井城は小笠原長雄の次男である雲井弾正小弼長秀の居城とされるから、両城は本城・支城の関係と思われる。
弘治3年(1557)4月3日長門国勝山城が陥落して大内氏が滅亡すると、毛利元就は吉川元春に対し、それまで認めていなかった井原進攻を承認(『萩藩閥閲録』巻84)。元春は井原に一城を構え、5月に入って雲井城を攻め落としているから、平城も雲井城と共に陥落したようだ。
この翌年には小笠原氏の本拠温湯城に対する攻撃が始まる。

参考文献
天津亘編『石見誌』 1925年
石見町誌編纂委員会『島根県邑智郡 石見町誌』1972年
瑞穂町誌編纂委員会『瑞穂町誌』 1964年