松ヶ崎城と金谷(きんたに)氏館     庄原市髙野町南

松ヶ崎城 標高650m  比髙105m  別名 金谷城 

金谷氏館 標高560m  比髙10m 

主な遺構  土塁・堀切・竪堀  

アクセス

 高野町の中心街新市から国道432号を東へ進むと毛無山方面への指示板が現れる。その先を右折して神之瀬川を渡る。金谷氏館は道の突き当たり、松ヶ崎城はその背後の丘陵上にある。

       


 松ヶ崎城は神之瀬川を見下ろす標高650mのピークに載る。神之瀬川を挟んで対岸にある蔀山城は高野町一帯に勢力を有した多賀山氏が本拠とした城だ。  

 城主は多賀山氏一族で家老職であった金谷右京と伝える。北麓には金谷氏館があるから、両者は山上に構えた詰城と平素の居館の関係にある。なお、金谷氏館の東方にある「新居館」は、神之瀬川対岸の別所にあった多賀山氏の居館(別府館)をこの地に移したものという。 

 大永7年(1527)尼子軍は備後国和知に侵入し、大内・毛利軍と和知細澤山で戦うが、翌享禄元年には多賀山氏攻撃に転じる。この年7月に始まった戦いで、多賀山氏は備後国衆の山内・田総・上山氏らの援軍を得て、一旦尼子軍を撃退したようだが、翌2年7月には落去してしまう(『萩藩閥閲録』巻13)。

 江戸期の備後国地誌『西備名区』は、元亀3年尼子軍が蔀山城を攻めたとき、尼子の部将が金谷氏の守る松ヶ崎の城を落として陣城としたことを記す。ただ、この攻撃は前後の記述から見て、元亀3年ではなく上記の享禄元年から翌年にかけてのことのようだ。

 急峻な尾根に載る松ヶ崎城は小規模な曲輪が多く、最大の主郭(1)でも東西25m南北18m程度。城の背後に続く尾根を遮断する堀切は一基だけ、それもわずかに尾根筋を刻んでいるにすぎない。

 一方、背後の尾根を見下ろす主郭南辺は土塁で固め、さらに主郭両脇の2・3郭側面の土塁は主郭の下方斜面を削り出して造成されたもので、堀切と共に背後の尾根筋を意識したものだ。2郭から北西に延びる尾根に並ぶ曲輪でも上方の曲輪から下ってくる斜面を削り出した土塁が両側面を囲む。

 金谷氏館は川沿いに発達する河岸段丘の地形を利用して営まれた居館跡で、その規模は長辺100m短辺65mとかなり大規模なもの。背後の山側に面して高さ3mほどの土塁を盛り、その外側には幅10m深さ5mの堀切が巡る。

松ヶ崎城。麓に見える台地は「新居館」



参考文献

髙野町史編纂委員会『高野町史』 2005年

金築義雄「高野町郷土史 たかの山」 1973年

得能正通編『西備名区』備後叢書 東洋書院 1990年

「近郷古事漫筆」 庄原市史編纂委員会『庄原市史』1980年