標高500m、比髙100m
主な遺構:土塁・堀切・竪堀・畝状竪堀群
アクセス
東広島市豊栄町の中心街乃美から国道375号を北へ。宮の首交差点を右折して県道28号へ入り約1km進めば右手にベッド工場が見える。その手前を右折し狭い道へ。東方の山に向かって進めば、やがて前方に見える台形の丘が後堀城だ。
城のある豊栄町清武から同じ豊栄町の吉原に越える室が峠はそれと気づかないほどの緩やかな峠だが、ここが安芸・備後の国境であり、同時に陰陽分水界であった。峠を挟んで北側は吉原氏の本領であり、この峠が小早川・吉原両氏勢力の境目となっていた。後堀城は国境の峠一帯を見渡す小さな丘に築かれた城だった。
江戸期の地誌は後堀城の主を国広八郎と伝える。伊勢神宮の御師村山氏の残した「村山檀那帳」天正9年(1581)分の「安宿あすか」(後堀城のある清武はもと安宿郷の一部)の項には国弘三郎左衛門尉の名が見える。西麓には六日市の地名が残ることから、『豊栄町史』は流通に関わった商人的武士の可能性を指摘している。
主郭(1)は1辺30mほどの歪んだ四辺形。南側が背後の丘陵につながる尾根で、定石通りここに堀切を入れ、堀切面には土塁が築かれる。主郭両側の腰曲輪に築いた土塁は主郭との通路を兼ねるとともに、曲輪外壁面の高さを確保して背後に備えたものだ。
主郭西側はやや大きな段差をもって2・3郭があり、主郭北側の堀切からの通路がこの両郭を経て主郭に導かれる。主郭東側の腰曲輪は小ぶりな曲輪だが、それぞれ井戸跡と思われるすり鉢状の窪地が残る。
本城の見所は背後の尾根続きに対する備えの厳重さだ。主郭背後には6基の堀切を並べるが、両端のものを除けば小規模で不明瞭なものだ。主郭直下の堀切は東西両斜面に延ばされて竪堀となり、さらに2・3郭の切岸下にかけて5基からなる畝状竪堀群が並べ築かれている。この竪堀群を横切って3郭に付けられた通路は後世の作業道のようだ。
参考文献
飯田米秋『賀茂郡史』中世武士編 東広島ジャーナル 1984年