槙尾城は広島県と境を接する邑南町の南端、広島県境を目前にした長田集落を見下ろす丘陵上に築かれている。
城は邑智郡南部に勢力を有した高橋氏によって南北朝時代に築かれたとされる。城の南わずか五百㍍には安芸国国境をなす直会すくえ峠(案内図参照)があって、この城は国境の峠を監視するには絶好の位置を占めていた。
天文9年(1540)には尼子の大軍がこの峠を越え、毛利氏の本拠郡山城の攻撃に向かったのだが、あえなく敗退する。このことから直会峠を越える道は尼子道と呼ばれるが、尼子軍の郡山城への進撃、また退却のルートはいくつかあり、各地に尼子道の伝承が残る。
ただ、高橋氏は尼子軍進攻の10年ほど前の享禄3年(1529)頃、毛利元就によって滅ぼされている。その遺領のうち口羽には志道通良(のち口羽を名乗る)を配置して石見国進出の拠点とし、吉田郡山城への連絡拠点として槙尾城には児玉内蔵助を配していたから、郡山合戦時には毛利方の拠点となっていた。
城の規模は東西100m南北100m程度。主郭を中心に3段構えに曲輪が配置される。土塁は主郭西端にすら盛られていないが、その一方、発達した堀切・竪堀で厳重に防御された城となっている。
城の背後に当たる主郭西側鞍部には二重堀切が設けられているが、不鮮明で尾根を十分に遮断するものになっていない。後世の破壊によるものだろうか。この二重堀切を見下ろす小郭aは攻め上る敵兵を迎え撃つ足場としての郭で、尾根の南北両斜面に下ろした竪堀によって山腹に回り込む敵兵の動きを制限している。
丘頂から発生する支尾根は不明瞭なものも含め5本。注目点はその全てを堀切・竪堀で遮断し防御していることだ。aと類似した構成を見せるのが北尾根のbで、両斜面に八の字状に下ろした竪堀が尾根伝いの攻撃に備える。
本城で最大規模のものが北東尾根の二重堀切で、堀切の末端が合流するという特殊な形態を見せる。このような堀切・竪堀は高橋氏の勢力下にあった邑智郡南部を中心に分布(注1)しており、高橋氏の築城手法に特徴的なものと言える。従って本城の堀切・竪堀は高橋氏一族の在城時代に築かれていた可能性がある。
南斜面に発生する3本の尾根はわずかな山腹の孕みに過ぎないような不明瞭なものだが、残さず掘りきっており、北東尾根の二重堀切から南斜面の堀切をつなぐ帯曲輪が南斜面の防御ラインとなる。
(注1)邑智郡南部で、下方斜面で合流する竪堀・堀切の見られる城としては、
琵琶甲城(邑智郡邑南町下口羽)、 観音城(邑智郡邑南町雪田)、 二つ山城(邑智郡邑南町鱒淵)、
本城(邑智郡邑南町下田所)、槙尾城(邑智郡邑南町上田)、高梨城(島根県邑智郡美郷町都賀行)がある。
参考文献
羽須美村誌編纂委員会『羽須美村誌』 1987年
大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年
『石見の城館跡』 1997年