勝山城  岡山県加賀郡吉備中央町下土井 

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 天正8年(1580)4月、毛利軍は伊賀久隆の本拠である虎倉城を攻撃するが、伊賀軍の逆襲によって有力部将が討死するなど大敗を喫してしまう(いわゆる「加茂崩れ」)。その後虎倉城攻めの拠点の一つとしていた福山城を放棄し、同年5月加茂市場から伯耆大山に向かう大山道を見下ろす丘陵に新たな要害を築いた。これが勝山城である。毛利輝元は譜代の家臣桂源右衛門尉・赤川次郎左衛門尉・岡惣左衛門に在番を命じ、これにもと備中三村氏に従っていた竹野井惣左衛門尉が現地案内人として添えられていた(桂笈圓覚書)。「桂岌圓覚書」は勝山城に在番した桂源右衛門尉が晩年書き留めたもので、これによれば新たに勝山城を普請した事情を「福山は敵の方へ差出たる山にて、しかも此方より渡りむつかしき小川」があるためとしている。

 この年7月には在番していた竹野井氏の下人が伊賀方に情報を漏らしたことが判明。問いただした上で討ち果したとの報告を受けた輝元は、一層「通路差切」に努めるよう指示している(閥閲録95)。勝山城在番衆の役割は伊賀方に対する情報・調略活動であり、敵の輸送路を遮断する通路差切といった軍事行動も含まれていた。こうした活動には現地の事情に詳しい竹野井氏のような「方角衆」は欠かせない存在ではあったが、地縁的・血縁的なつながりから常に敵方に通じる危険をはらんでいたようだ。

 翌9年4月頃伊賀久隆が急死したのち、その子家久は毛利氏に服属。その結果勝山城の重要性は低下し、勝山城に在番した岡惣左衛門は宇喜多氏と間で新たに緊張の高まる「忍山相城」(注1)へ派遣されている(閥閲録巻95)。勝山城の普請はその時点でも続けられていたようで、8月下旬には伊賀氏に普請を依頼している。

 

 勝山城の位置について、『全国遺跡地図』岡山県では勝山城の場所を舟山城とし、南方500mにある小丘を勝山城としているのは、何らかの混乱があったものと思われる。『加茂川の山城』は舟山城については不明とし、勝山城の位置を「下土井から細田に向かう道の左上」「細田から延びた尾根の上で、北側は上井原の谷」と明確に記している(案内図参照)。

 城の比髙はわずかに50m。低くなだらかな丘陵に築かれている。長円形の主郭は長径70m、短径28mとかなり大振りで、その廻りには北西斜面を除き幅10m~3mの腰曲輪が取り巻く。腰曲輪はいくつかの小区画に分かれており、城の南面から西面の数カ所に折を設けて城壁面に横矢を掛けている。さらに北西斜面を除く城の全周には畝状空堀群がびっしりと築かれている。竪堀の数は合計40基、岡山県下有数のものだ。特に主郭南西側にある畝状竪堀群は上端に帯曲輪(一部に土塁が見られるから横堀だろうか)を備えているから、ここは攻め上る敵を迎撃する防御拠点となったはずだ。

 城は加茂市場を方面を見通す南西斜面を中心に軍事的要素の高い普請を施す一方、城の北西側は緩斜面をそのまま放置している。尾根続きとなって細田方面に繋がる北東側でも堀切1基と隣接する竪堀数基が確認できるだけで、堀切面の腰曲輪には土塁も認められないから、加茂市場に至る谷筋を正面とする城と言える。

 

注1 相城とは敵城を攻めるために攻城軍が築いた砦を示す言葉で、向城・付城と同じ。「忍山相城」は忍山城と向かい合う位置にある勝尾城(岡山市北区)と思われる。

勝山城。南側から撮影

南斜面の畝状竪堀群

参考文献

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』岡山県  1985年

  加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年