飯山城 岡山県高梁市有漢町上有漢・加賀郡吉備中央町福沢

標高508m 比髙150m

主な遺構:堀切・畝状竪堀群

アクセス

 有漢市場から県道49号を東へ。有漢東小学校手前の交差点を左折し県道332号へ入る。川関川沿いにさかのぼると、その最上流部に戸数数戸の飯ノ山集落がある。集落東方に見上げる山が飯山城だ。民家の北側から山道が延びている。

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 備前・備中の国境をなす丘陵上に飯山城があり、その北2kmには美作を加えた三国国境がせまる。城の標高は508m。標高400~500mの吉備高原上にちょこんと乗っかったような峰に載る城だ。東方2kmには本城と共に毛利の番衆が配置された都我布呂城、西方4kmには四畝城が視界に入るなど、人里離れた奥地に立地するにも拘わらず優れた眺望を有する。

 朽ちかけた小祠の鎮座する1郭はわずかな段差で3区画に分かれ、これを2・3・4郭その他の小郭が2段構えに取り巻く。2郭は主郭の東側から南側を囲む曲輪で、その西端に南尾根から登ってくる道(a)が入ってくるが、この道は神社の参道として取り付けられた後世のものかもしれない。

 北東の尾根続きと南東の尾根続きはそれぞれ三重の堀切で遮断。堀切両端は大きく斜面に延ばして竪堀とし、遮断効果を高めている。本城の見所は何といっても斜面を覆い尽くす畝状竪堀群で、堀切を延長した竪堀を含めれば、合計22条の竪堀が斜面を穿つ。これらの竪堀群を見下ろす2・3・4の腰曲輪は斜面を攻め上る敵を迎撃する足場となったはずだ。

 ハリネズミのように竪堀群を巡らし、切岸もキッチリ仕立てて防御を固める一方、曲輪の普請はいささか甘く要所に土塁を盛ることもしていない。急ぎ最低限の防御装置を施したという雰囲気が感じられる。

 興味深いのは尾根続きの処理の仕方で、本城は三重堀切で遮断するのだが、ほぼ同時期に築かれた鍛治山城(岡山市北区大井)や勝山城(吉備中央町下土井)では尾根筋に竪堀群を下ろすことで防御していることだ。

 攻め上る敵兵に対して遮断を重視して堀切とするか、上方からの見通しが効く竪堀を採用して迎撃能力を高めるかといった縄張りの志向性(ひょっとしたら好み)の違いが見えるようで興味深い。

 城の西端から南に延びる尾根上の緩斜面には、周囲を削り落として切岸とした部分が認められる。軍勢の野営地となっていたのかもしれない。

 

 天正7年(1579)、毛利氏と同盟を結んでいた宇喜多氏の織田方帰属が明らかになると、毛利・宇喜多の勢力圏が境を接する備中・備前国境地帯から美作に至る地域の緊張が高まる。この年12月末には毛利軍が宇喜多勢の籠もる四畦城を攻略し、翌8年に入ると備前加茂の伊賀氏の攻撃に向かう。そして新たな軍事拠点として普請した飯山城・都我風呂城には、毛利輝元重臣桂左衛門大夫・粟屋備前守らが番衆として送り込まれている(閥閲録遺漏・甲田家文書)。

 同8年2月、美作垪和はが郷の竹内氏が一族の杉山氏と共に宇喜多氏から離れて毛利方に寝返ったことから、垪和はが郷を巡る情勢が緊迫化する。輝元は報せが入ると直ちに庄原兵部少輔を検使とし、庄・多治部・石蟹氏といった備中北部の国人衆を援軍として垪和へ送り込んだ(美作国諸家感状記)。

 同年3月には飯山城と都我風呂城の在番衆が垪和や川口(現岡山市建部町川口)に進出して宇喜多軍と戦っているが、高原を深く刻んで流れる旭川の峡谷に妨げられて毛利の支援は不足したようで、8月には竹内氏の本拠高城が陥落する。

 そののち宇喜多・毛利の攻防の焦点は備前・備中の南部国境地帯に移動し、飯山・都我風呂城の軍事拠点としての意味は低下したようだ。飯山に在番した部将粟屋弥三郎とその一所衆、さらに備前勝山城に在番していた岡宗左衛門とその一所衆も、伊賀氏服属直後の天正9年9月「忍山相城」(岡山市北区御津勝尾の勝尾城と思われる) へ派遣されている(閥閲録巻90)。

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主郭

 

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南斜面の畝状竪堀群を見下ろす

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主郭に鎮座する祠



参考文献

 小川博毅 『美作垪和郷戦乱記』 吉備人出版 2002年