都我布呂城 岡山県吉備中央町杉谷・真庭市上山

 f:id:kohanatoharu:20220118143808p:plain

     f:id:kohanatoharu:20220118143841p:plain

 

 城の名は地名や城主名、また茶臼山や陣山のように山の姿や機能で呼ばれることが多いのだが、「都我布呂」とは何とも妙な名前。『美作垪和郷戦乱記』によれば「ふろ」とはこの地方の方言で森を指すとあるから「栂《つが・とが》の森」を意味する。事実「栂森」と記す文書もある(閥閲録巻112など)。城名は単なる当て字に過ぎないようだ。

 城の標高は414m。吉備高原の一角にあり、周囲には標高400m前後の小起伏面が広がる。城の周囲は豊岡川の刻んだ深さ100mほどの谷が刻まれるが、北側から見る城は高原上の小丘に過ぎない。城の中ほど、独立標高点のある丘頂から南北双方に向け、側面に通路を備えた曲輪が階段状に並ぶ。曲輪の規模はいずれも小さく、特に丘頂以北では各曲輪の肩はだれており、曲輪の形が判然としない。また城の南斜面から尾根端にかけては堀切・竪堀がかなり丁寧に築かれているのに対し、城の背後は高原上の上山集落(現真庭市落合町)につながる尾根であるが、ここには土塁はおろか堀切すら確認できない。

 

 天正7年(1579)宇喜多氏の織田方への帰属が明らかになって、この年12月には毛利・吉川・小早川の大軍が備中中部に集結し、12月末宇喜多勢の拠る四畦城を攻略。翌8年に入ると美作に侵入すると共に、備前では伊賀氏の本拠虎倉城を攻撃。そして侵攻の拠点として飯山城・栂風呂城を普請し、両城に兵を籠めている。都我風呂城には毛利家臣高須彦次郎・河北木工助が送り込まれている(閥閲録巻53・112)。

 一方、江戸期美作国の地誌『作陽誌』では、城主として芦田作内・新山玄蕃の名をあげる。新山玄蕃は有漢常山城主、芦田作内は美作沖構城の守将としてその名が伝わる。この2人が確かに高須・河北ら毛利家臣と共に当城の守備に当たったのかどうか確認出来ていないが、なじみ深い地元の武士の名が記憶に残りやすかったのかもしれない。

 当城は飯山城と共に備前・備中・美作の三国国境にほど近い場所に配置した毛利方の拠点であるが、飯山城に比べ一層甘い普請となっているから、ごく短期間の軍事拠点であったようだ。

 本城の麓には備中南部から加茂市場を経て落合方面に向かう大山道が抜ける。『落合町史』はこの道を監視するための砦であったものと見ている。

 

参考文献

 小川博毅 『美作垪和郷戦乱記』 吉備人出版 2002年

 落合町史編纂委員会『落合町史』地区誌編   1999年

 建部町『建部町史』地区誌編  1991年