双内城 岡山県真庭市上砦部双内

標高400m 比髙180m 

主な遺構:土塁・畝状竪堀群

アクセス

 砦部市街から備中川に沿って北西へ約4km、山裾の双内集落南端に登り口がある。備中川と中国自動車道を左手に見下ろしながら尾根伝いに登る道だ。城跡は尾根先端部の408mピークからさらに300mほど北、標高400mのピークにある。 

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 これが城なのかと驚いた遺跡を紹介する。『北房町史』に「双内城 上砦部双知 標高410m(比髙230m)城主は庄氏の被官左右地氏」とあり、載せられた簡略な見取り図には四重の竪堀らしきものが記入されていた。これに興味を持ち出かけたのだが、城跡を発見できず撤退。地元の詳しい方に細かく城の所在を聞いて再度登り、やっと確認出来た城跡だ。

 

 中国自動車道の脇から城跡に向かう道は備中川沿いの峡谷を避けて尾根伝いに奥地に向かう古道であって、かつて牛馬も往来したという。現在灌木がかぶさっているがしっかりとした道が残っている。城跡は盆地を見下ろす先端のピーク(標高408m)ではなく、稜線上をさらに300mほど進んだ標高400mの小さなピークに残されていた。

 山頂の曲輪は人の背丈ほどの切岸に囲まれた卵形(長径35m短径20mほど)の平場で、中央部がわずかに高く周辺部に向けて緩やかに傾斜する。曲輪はこの山道に面した西斜面側の切岸がきっちりと造成されているだけで、東斜面側は肩がだれて切岸は不明瞭だ。曲輪に土塁は無く尾根筋を遮断する堀切も無いから、切岸を除けばさしたる普請をしたものとは思われない。いかにも急拵えの城のように見える。

 そして北房町史の指摘通り4基の竪堀が残る。この程度のぬるい普請の城に竪堀群があること自体驚きなのだが、竪堀は堀幅6~7m、長さは最大50mに及ぶ巨大なものだった。町史に載る図では竪堀群の下端に堀切が見えるが、竪堀下端の鞍部は北東に延びる谷筋で、堀切らしきものは確認出来ない。

 この城が丘陵先端のピークでなく、南麓砦部方面への視界が遮られた奥寄りのピークに載ることから考えれば、城は背後の高原側を意識した築城とみることが出来る。このことは竪堀群が北側に向けて築かれていることからも納得出来るところだ。

 さらに北房町史はここから約105m北にも四周土塁囲みの北郭があると記す。縄張図に示したように、確かに長径25mほどの楕円形を呈する土塁囲みのスペース( a )、その北隣にも長さ20mの土塁状のもの(b)が存在するが、これらが防御施設としての城館の一部なのかどうか、疑問の残る所だ。いずれにしても遺構の状況からみれば一時的な軍事拠点として築かれた城のようだ。町史は主城である高釣部城の北方の守備を固める城と判断している。

 城主とされる左右地(双内)氏は庄氏の被官で、秀吉の朝鮮出兵に高釣部城主庄信資に従って従軍したという。

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双内城は右寄りのピークの奥にあって麓からは見えない。山麓に見えるのは双内集落。

参考文献

 北房町史編纂委員会『北房町史』 1983年