矢倉畦城 岡山県加賀郡吉備中央町上竹 

別名:矢倉城、矢倉畝城、桝形城

標高588m 比髙240m

主な遺構:土塁・堀切

アクセス

 吉備中央町役場賀陽庁舎から南方に見える矢倉山山頂に矢倉畦城がある。賀陽庁舎から西へ600mほど進むと「道の駅かよう・賀陽インター」の指示板がある。ここで左折し南へ2kmほど進むと左手に矢倉城の案内板が設置されている。案内板の先を左折して室納に抜ける林道に入る。室納集落に越える峠が登り口となる。

     

 矢倉畦城は標高588mの矢倉山にあって、城跡からは西麓から北麓にかけて広がる竹庄盆地を一望の下に収める。

 城の規模は南北50m×東西50m程度。小規模な単郭の城だが、急峻な切岸に防御された土塁囲みの城となっている。切岸の高さは4~5m、直線的に整えられた城壁には折が入って、横矢を掛ける工夫も見られる。曲輪の北東隅にはわずかな窪みがあって、通路が入ってくるからここが虎口らしい。

 曲輪内部には未加工の斜面が残り、充分に削平されてはいない。曲輪内を丁寧に均して居住スペースにすることよりも、曲輪の縁に土塁を盛り、切岸を急角度に加工するといった軍事的要素が優先されたということらしい。

 山頂から三方に延びる尾根のうち、堀切が刻まれているのは唯一南西尾根だけ。それも切岸下に沿って築かれており、下方斜面には伸びない。この堀切を外れると切岸下には帯状の平坦地が広がる。これは切岸形成時に生まれた緩斜面に過ぎないようだ。

 

「古戦場備中府志」によると、本城は田中藤九郎盛兼が築城したという。

 天正2年(1580)、 備中松山城主三村元親が毛利氏から離反し織田方についたことから、毛利軍が三村氏討伐のため備中に出兵。いわゆる「備中兵乱」が始まる。軍記「備中兵乱記」には「多気(竹)庄には矢倉畦・庄田山・野山の城数ヶ所に日々放火」とあって、竹庄一帯でも三村方の城への攻撃が行われたようだ。

 矢倉山北麓に設置されている説明板によると、矢倉畦城から北西に延びた稜線の先端付近、地蔵ケ鼻と呼ばれる小さな丘がある。ここは矢倉畦城の北方防衛の拠点であって、竹庄合戦の戦場となった所だという。

 備中兵乱当時の矢倉畦城主は田中掃部介とされるが、三村氏滅亡ののち、毛利の部将難波伝兵衛親俊が在番した。伝兵衛はその後秀吉軍の水攻めで知られる備中髙松城を守備しており、髙松城落城の際、清水宗治と共に切腹している(「難波家由緒書」『賀陽町史』)

曲輪の中央部には説明板と石仏が

土塁と急角度に加工された切岸

左右に横切る急崖が矢倉畦城の城壁(切岸)。 周囲には緩斜面が広がる

曲輪の南東隅

室納に越す峠からの登り口

参考文献

 賀陽町教育委員会『賀陽町史』 1972年

 「備中兵乱記」(『吉備群書集成』第三輯 歴史図書社 1970年)

 「中国兵乱記」(『吉備群書集成』第三輯 歴史図書社 1970年)

 「古戦場備中府志」(『吉備群書集成』第五輯 歴史図書社 1970年)