標高480m 比髙180m
主な遺構:土塁
アクセス
真庭市・高梁市境にある四峰山に城跡がある。備中鍾乳穴のある真庭市井殿から南へ、県道312号を有漢方面へ向かうと山中に工場がある。これを過ぎて300m、高梁市境の峠で道が三叉路となっている。これを右へ取り、約200m進むと左手に分岐する山林作業用の山道が見える。尾根伝いに四峰山へ向かう道で、草に埋もれてはいるがしっかりした道だ。前方に見える四峰山を確認しながら道をたどればいい。
高梁市・真庭市境の四峰山はその名の通り4つの峰からなる山、と言いたいところだが、峰の数は三角点のある主峰から東に向けて五峰が行儀良く並ぶ。城の遺構は第二・三峰、それと二つの峰に挟まれた鞍部の曲輪からなる。
本城最大の曲輪は東曲輪群の1郭で、東西50m南北17mほど。北西側には一段高く土塁に囲まれた小郭2。東側にも土塁囲みの小郭3があり、ここに鞍部の曲輪群からの城道が上ってくる。
西曲輪群の4郭は最高所を占める曲輪だが、地形に制約され歪んだ形を見せる。5郭は四峰山主峰に向かい合う西端の曲輪で西辺は土塁で囲まれるが、その下方鞍部に堀切は確認出来ない。これだけではなく、竪堀も含め空堀は全く築かれていないから、毛利勢の手が加わった城としては異色のものと言える。
天正7年(1579)6月頃、毛利と同盟を結んでいた宇喜多氏の離反が明らかになったことから情勢が一気に緊迫化する。宇喜多・毛利両軍の衝突は備中の有漢と竹庄で始まった。
同年8月、有漢地下人が蜂起し、四畝の城を普請して賀茂の伊賀氏に加勢を要請したが、その加勢は得られず事態は沈静化。次いで9月には隣接する竹庄でも地下人が蜂起している。美作国鹿田でも宇喜多方に味方した鈴木一族と庄官衆が備中松山城と高田を結ぶ通路を遮断するなど、反毛利の動きが各地で活発化する。
毛利輝元は松山城に在番していた熊谷就眞の「中とをり一城可取付」(萩藩閥閲録巻127)との意見を受けて対応を検討。四畝城の西方4kmに位置する佐井田城に熊谷を入れて城を改修、さらに岡元良ら加番衆をいれて態勢を強化した上で、四畦城へ攻め寄せている。
この年12月24日に四畦城を陥落させたのち、輝元は備後国久鬼城主の馬屋原兵部大輔に在番を命じている(閥41馬屋原)。「備中府志」が四畝城主と記す高橋右馬允資高は、備中南部の酒津城(流山城)を本拠とする武士だから、四畝城に在番した部将の中で、地元になじみのある高橋の名が記憶されたのかもしれない。
参考文献
平川親忠「古戦場備中府志」(『備後叢書』5巻 東洋書院 1990年)
『中国兵乱記』(『吉備群書集成』三 歴史図書社 1970年)