別名:高山城
標高664m 比髙430m
主な遺構:土塁・石垣・竪堀
アクセス
真庭市目木から目木川に沿って北上し、樫東のT字路を右折して鏡野方面に向かう。やがて道の右手高台に余野小学校が見える。小学校から南東側に見える山が城のある高山で、小学校の遠足などで親しまれていた山だ。学校前の道を登っていくのだが、登り口との標高差は400mを越える。余裕を持って登りたい。
実は城名「高仙(高山)」の読みがよく分からない。国土地理院の地形図には高山の「山」に「せん」とルビを振るから城名は「たかせん」または「こうせん」だろうが、『岡山県中世城館跡総合調査報告書』とwebサイト「おかやま全県統合型GIS」は「たかぜん」とする。登山地図アプリで公開された山行記録では「こうせん」とするものがあり、私もこの読みだと思っていた。さてどれが正しいのか、それとも幾つもの呼び名が使われていたのか。
高仙城は真庭市久世の中心街から北東の方角、旭川の小支流目木川を見下ろす急峻な山に築かれている。城の南方2kmにある岩屋城(津山市中北上)とは尾根続きの山になる。城の載る高山の標高は664m、北麓との比髙は430mに及ぶ。江戸期の地誌『作陽誌』は、東は播磨北は伯耆南は備前まで視野に入るとその優れた眺望を記すのだが、これはいささか誇張した表現で、北の伯耆側で言えば国境をなす1000m級の山々が何とか見えるに過ぎない。
山頂の1郭が本城最大の曲輪で、長さ30m幅15mの規模。ここから主稜線の延びる東西方向に小規模な曲輪が階段状に配置される。急崖の上に築かれた城だけに切岸の造成はわずかだが、曲輪の側面には諸郭を結ぶ通路を兼ねた土塁、あるいは帯曲輪を備える。
城の東西両端への備えは土塁囲みの曲輪と切岸だけで、尾根を遮断する堀切は築かれていない。本城で確認した空堀は1郭南斜面に下ろされた短い竪堀1基だけ。毛利勢、特に小早川の手になる築城には発達した堀切・竪堀群が特徴的だが、本城は様相の異なる縄張りとなっている。
中世の城は築城時期の不明なものが大多数だが、高仙城は珍しくその時期が明確に分かっている例だ。天正8年(1580)11月、毛利輝元は宇喜多軍の攻勢によって落城の危機に瀕していた祝山城を救援するため美作国高田城に着陣していた。輝元は余野一帯を検分した上で、当時宇喜多方拠点となっていた岩屋城の背後に聳える高山に城普請を命じている。
普請にあたった小早川隆景によると、この城は「岩屋之向城、葛下への此方伝」(閥閲録巻100)、つまり高仙城は岩屋城攻撃の拠点であると共に、毛利方に属していた美作の国衆中村頼宗が守る葛下城、さらには宇喜多軍との戦いの最前線となっていた祝山城との通路確保を目指すものであった。城には出雲の国衆三沢氏に五千貫という破格の給地を約束して在番させたのだが、祝山城の救援はならずこの年12月下旬陥落してしまう。
天正10年備中髙松合戦で羽柴秀吉軍に敗れた毛利氏は、領土交渉の結果高梁川以東を宇喜多氏に割譲し、宇喜多氏・毛利氏の境界を備中高梁川とする条件で秀吉方と講和を結ぶが、美作からの毛利方軍勢の退去は容易に進まなかったようだ。毛利の外交僧として活躍した安国寺惠瓊から毛利輝元に宛てた天正12年正月11日付書状では、国元からも高田・岩屋・宮山・高仙の各城からの退去を言い聞かせるよう要請している。
参考文献
正木輝雄 『新訂作陽誌』1975年 作陽新報社
webサイト「おかやま全県統合型GIS