茶臼山城  広島県安芸高田市向原町長田

標高243m 比高60m 

主な遺構:土塁・堀切

アクセス

 広島市内から県道37号を三次方面へ。広島市立井原小学校の前を過ぎて2kmほど進むと道路脇に「尼子三兄弟ゆかりの墓」の案内板がある。これに従って左折し、JR線路を越えれば、茶臼山城は正面の丘にある。案内図に見える破線の徒歩道を進めばいい。

   

   

 城は三篠川の谷筋を見下ろす丘陵先端に築かれている。丘頂のごく小規模な曲輪を囲んで帯状の曲輪が三重に取り巻く。

 南東端には土塁の切れ目に開かれた虎口(というより、地山を掘り窪めて造成した虎口)がある。虎口から見上げる位置に土塁囲みの小郭aがあって、ここに守備兵を配置すれば堅い守りの虎口となり、なかなか見事な構成といえる。

 背後の丘陵につながる尾根は三段構えの帯曲輪の下で掘りきっているのだが(図中b)、ごく小規模で貧弱なもの。その先には、堀切もないところに謎の土橋状通路が伸びる。一方、南西尾根では二重堀切(c・d)を刻んでしっかりと遮断している。

 広島県下で、このような工夫を凝らした虎口を持つ城はめったに見られないのだが、当城は緩傾斜の丘に載っており、背後への備えも貧弱だから、外敵の攻撃を受けたとき立て籠もって防御する「詰城」とは考えにくい。

 

 江戸期の地誌『芸藩通志』は茶臼山城主を武安某と伝えている。

 旧高田郡南部の三篠川流域(現在の広島市安佐北区白木町と安芸高田市向原町の一部)は、中世には「中郡(なかごおり)」と呼ばれており、代々この地に所領を有した内藤・三田・井原・秋山の各氏が中郡衆と呼ばれていた。彼らは16世紀の初頭、毛利興元(元就の兄)の時代、相次いで起請文を提出し、毛利氏の支配下に入っている。

 茶臼山城主と伝える武安氏は、中郡衆内藤氏の一族であり、内藤氏の所領であった向原町長田一帯には、内藤氏ゆかりの史跡が幾つも残る(案内図参照)。

 

 城の東側にある円明寺は、永禄9年(1566)に尼子氏の本拠月山城が陥落したのち、降伏した尼子義久・倫久・秀久の三兄弟が幽閉されたところ。そして田屋城主内藤元泰がその監視役を命じられている。尼子氏降伏ののちも、山陰方面では遺臣による尼子再興の動きが続いたから、三兄弟に対する監視は23年に及んだという。

 城はこの円明寺を見下ろす位置にあるから、内藤元泰の家臣がここに詰めて警備に当たっていた可能性もある。

円明寺跡。奥に土塁が見える

県道脇の説明板

参考文献

 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983年

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 向原町誌編さん委員会『向原町誌』 1992年