中郡衆の城と館 ① 三田氏

中郡と中郡衆

 毛利氏の本拠地があった安芸国高田郡は、大部分が日本海に流れる江の川流域に位置するが、南寄りの一部は瀬戸内に河口を持つ太田川の支流三篠川流域にある。

 この三篠川流域一帯(現広島市安佐北区白木町・安芸高田市向原町)を「中郡なかごおり」といい、ここに代々所領を有した井原・秋山・三田・内藤の四氏が「中郡衆」と呼ばれた。永正4年(1507)には三田能登守元親が毛利氏に起請文を提出して服従。井原・内藤らもあいついで毛利氏に臣従している。

中郡衆(赤字)とその他の有力武士(地理院地図Vectorより作成)

 

 

三田氏の城と館

  中郡のうち、三篠川下流にある白木町三田に勢力を有したのが三田氏で、その居城とされるのが萩原城と七郎城だ。

 萩原城は比高60mほどの尾根上に築かれている。丘頂の1郭は背後を延長50mの堀切で遮断。不明瞭だが北側にも堀切を刻んでいるようだ。北と西に伸びる尾根上数カ所に曲輪を配置するが、いずれもわずかに整地した程度のもの。

 一方、北麓には石垣を巡らした曲輪には庭園らしい場所もあって、三田氏の居館跡とされる。三田氏の本城と伝える城である。

原城縄張図

 

 七郎城は城は標高704mの安駄山から派生する支尾根の先端、三篠川を見下ろす標高150mのピークに築かれている。

 やせた稜線上南北120mにわたって曲輪が並ぶが、中ほどの空堀によって南北2つの曲輪群に分かれる。いずれも急峻な地形に制約され、小規模でいびつな形を呈する曲輪が多い。三篠川に面した西斜面にはひな壇状に腰曲輪が並ぶ。ここでは石垣が多用され、曲輪の下方には竪堀群が築かれている。

七郎城縄張図(『広島の中世城館を歩く』より)

 城の背後を遮断する二重堀切は東斜面側に大きく回り込んで、延長200mを超える空堀となる。東側緩斜面にはさらにもう2条の空堀が並べ築かれているから、なかなかの壮観だ。下写真はその空堀に挟まれた3郭。

空堀に挟まれた3郭。後方左手には1郭が見える

 ところで、七郎城とはちょっと変わった城名。「国郡志下調書出帳」では城主を三田少輔七郎元実とするから、これが城名となっているのかもしれない。地元では所在する地名によって古川城と呼ばれている。

     

 『芸藩通志』城墟欄ではー

 原城 三田村にあり、三田七郎元実が所居、又は備前元秀といふ、元秀は元実の孫なり、

 七郎城 同村にあり、三田元実所居、のち五郎左衛門元親までこれを守る、

芸藩通志』によると、萩原城・七郎城共に三田元実以降、数代にわたって居城したことになり、どちらが三田氏の本拠なのか判断しかねるが、遺構面からみれば、戦国末期まで使われたのは七郎城と思われる。

 三田氏の城としては、ほかに三田五郎左衛門宅跡(三田新城)があり、『芸藩通志』では元親の父元吉の代からここに住んだという。七郎城の北方、三篠川対岸の河岸段丘上に位置するが、明瞭な遺構は確認出来ない。

 

 三田の北端にあたる柳原には柳原神社(旧称 柳原八幡宮)がある。天文8年(1539)三田能登守元吉が大旦那となり本殿を再建、同23年には元親が拝殿を建立するなど、三田氏の尊崇した神社だった。(『広島県神社誌』)。

柳原神社

    

参考文献

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年

 広島県神社誌編纂委員会『広島県神社誌』1994年

 広島県庁編『広島縣史』第3編 1921年

 表 邦男『広島の中世城館を歩く』渓水社 2021年