標高346m、比髙300m
主な遺構:土塁・堀切・竪堀
アクセス
府中市街地北寄りにある府中公園から府中八幡神社を経由する登山道を登る。神社からは八尾山山頂直下にある妙見社まで参道が延びている。また八尾山の北側、七つ池憩いの森に向かう車道を経由するルートもある。
八尾城については、江戸期の地誌『西備名区』に、
此城地に上る道八つあり、麓に流尾八つあり、故に八尾城といふなり
と記される。山頂から発生する尾根が八本あるかどうかは数え方によるが、確かに尾根はタコ足のように放射状に伸びる。ただし曲輪の載る尾根は六つだけだ。
登り道も多いようで、上の案内図には破線で示された道が幾筋も見える。現在の登城ルートは南麓府中八幡神社からの道は谷筋を登り、妙見社の鎮座する曲輪(下図の3)に入ってくるが、これが本来の登城路かどうか。
城は府中市街を眼下に見渡す山頂に築かれており、城の規模も南北220m、東西260mと、備後南部では神辺城(福山市神辺町)に匹敵する規模である。山頂の主郭(1)は南北55m東西20mの規模で、主郭を中心として南北に連なる曲輪が本城の中核部をなす。
防御に最も留意した所は城の背後、旗立岩につながる稜線である。この稜線を見下ろす尾根に構えた2郭は北辺から東辺にかけて土塁を盛り、切岸下から分岐する2本の尾根をそれぞれ堀切で遮断している。さらに西斜面側でも曲輪の側面を固める竪堀が4カ所見られるから、西斜面の備えも重視していたようだ。
東および南西尾根では、曲輪の下方斜面を削り出して下方の曲輪側面を防御する土塁に仕立てたものが図中 a のほか数ヶ所にみられる。いずれも曲輪間を結ぶ通路を兼ねたものだ。
備後南部の主要な城と比較すれば、当城では堀切・竪堀の数が少なく、素朴な縄張りなのだが、削平・切岸の端正さが印象的な城となっている。
八ッ尾城は中世備後南部に勢力を広げていた杉原氏の総領家が本拠とした城である。
『西備名区』には、
杉原伯耆守光平
鎮守府将軍平貞盛後胤、鎌倉殿に仕え頼家将軍より備後守護を賜り、当城を築て住す
とあるが、杉原光平は備後国の守護ではなく、備後国衙の在庁官人であろうとされるし、築城の時期についても南北朝期に下ると考えられている。
参考文献
田口義之 『備後の山城と戦国武士』 葦陽文庫 1997年
『西備名区』(『備後叢書』東洋書院 1990年)
『日本城郭大系 13 広島・岡山』 新人物往来社 1990年