11月9日、39番札所延光寺に参拝したのち、宿毛市街を経て国境の松尾峠へ向かう。
徳島・高知県境の古目峠のところでも取り上げたが、江戸時代土佐藩は国境の峠で厳しい監視をしていたという。この松尾峠も土佐と伊予を結ぶ重要な道だったから、土佐藩は「松尾坂口番所」で遍路や旅人を取り締まっていた。
古目峠にふれた記事はこちら
遍路用地図では、宿毛からの峠道は斜面をじわじわ登っていく道のように見えたが、実は幾つもの尾根を越えては下るの繰り返し。「松尾坂口番所跡」を過ぎた所で強烈な急坂が待ち構えていた(上図)。
遍路の通った古目峠と松尾峠。国境の険しい峠道は、やはり土佐藩の鎖国政策と関係があるように思えてしまう。
峠を下れば愛媛県愛南町。今夜の宿は一本松にある人気の遍路宿「大盛屋」。
10日、一本松から峠を越えて愛南町御荘の40番札所観自在寺に参拝。納経を終えて休んでいると、本堂前で歌手のような見事な歌声。
何事かと覗いてみると、台湾から来たという女性が手を合わせ、聞いたことのない言葉で読経(?)していた。続いて大師堂前では短い言葉を繰り返していたから、こちらは「南無大師遍照金剛」のような言葉を唱えていたのか。
観自在寺から遍路道を離れ、宇和海沿いの国道56号を北へ向かう。今夜の宿営地は津島町浦知のふれあい広場。
昨年春、足を痛めて遍路を中断し、バスで宿毛から宇和島に向かったのがこの道だった。山桜のピンクと萌黄の色に染まった宇和海の山々が見事で、遍路の中断を悔やんだことを思い出す。
うれしいのは、宇和海沿いの国道には2カ所の歩行者専用トンネルが用意してあったこと。これならトンネルの壁に反響する轟音や、排ガス・砂ぼこり、車の風圧にさらされなくてすむ。
11日、宇和海に別れを告げて宇和島へ。昨日まではTシャツ一枚でも汗だくになって歩いていたのに、今日は北風が吹いて一気に冬の天気に。肩や背中がしびれ、足の痛みがひどくなってきた。
峠越えの古い遍路道を歩いているときだった。道を塞いで人形の首が飾られていた。
一体これは、、、
この日は土曜日だったから、道の駅でのテント泊では眠れないかもしれないと、急遽宇和島市内の素泊まり宿へ。
その前にちょいと天赦園へ立ち寄り。
11月12日 宇和島から北上し、三間町の札所41番龍光寺・42番仏木寺に参拝。
それから歯長峠を越えて宇和町の43番明石寺へ。明石寺の麓に広がる卯之町は宇和島藩の在郷町だったとかで、レトロな街並み。
この日見学したのは旧宇和町小学校を移築した宇和米博物館。毎年、延長109mもある廊下で雑巾がけタイムを競う「Z-1グランプリ」が行われているとか。
もう一つが、明治15年、町民の寄付によって建設された小学校である開明学校。卯之町の文明開化への思いが伝わる建物となっている。
この日の宿は卯之町の老舗富士廼旅館。
翌13日、夜中には宿の屋根をたたく強い雨音。明るくなって外を見ると雨や霰が降って、地面はうっすらと白くなっていた。一昨日までは半袖Tシャツ一枚で充分だったのに。
歩きはじめるとやがて雨は上がったのだが、体は悲鳴をあげていた。翌日からは久万高原町の札所、大寳寺・岩屋寺に向かうのだが、天気はまた崩れるらしい。
遍路を続けるのはもう無理だとあきらめ、せめて弘法大師が野宿をしたという「十夜ヶ橋」に泊まって遍路を中断することに。ただし、泊まったのは橋の下ではなく別格8番霊場十夜ヶ橋永徳寺の通夜堂。
お世話になりました。
「十夜ヶ橋」 橋の下には野宿する大師の像が祀られている。
11月14日早朝、近くのバス停でバスに乗り、数回乗り換えればわずか6時間で自宅に到着。何とあっけないこと。
今回の遍路でも、バッテリー充電や入浴・洗濯のため数日に一回宿に入るほかは、テント泊、通夜堂・大師堂・善根宿などを利用した遍路を目標としていた。
今回宿泊した28日間の内訳は下記のとおり。
テント泊9
通夜堂・大師堂5
善根宿1
旅館・民宿・宿坊・ホテル13 (うち素泊まり3)
宿泊地が街中になる場合、道の駅や駐車場では夜中の騒音や光で安眠出来ないし、市街地の公園ではテント泊禁止の場合があるから、宿に入ることが増えてしまった。
ただ、近くに手頃な宿営地があったのに宿に入ったことが6回。これをテント泊にしとけば何とか目標達成だったのに。このあたりが今の自分には限界なのかもしれない。
今回の遍路でも、通りすがりの方からジュースや果物、時にはお金まで頂戴し、励まして下さったし、旅館や通夜堂・善根宿などでも暖かくもてなして頂いた。
数々のお接待に改めてお礼を申します。ありがとうございました。