HENRO TRAILを歩いた ⑥

 四国遍路25日間のまとめ。

 最終日を除く24日間の移動距離は611km。交通機関利用部分が60kmほどあるから、歩いたのは550kmほど。1日の平均歩行距離では22 kmとなる。

 今回の旅で目指したのは、宿泊施設に出来るだけ頼らない歩き遍路。知らない土地を一人歩くには、それに旅の記録を取るためにスマホが不可欠で、その充電のため3~4日の間隔で宿に入る必要があった。24日間の宿泊場所をまとめると次の通りだが、体力不足のため民宿・旅館利用が多くなっている。

  テント泊        8日

  善根宿・通夜堂・観音堂 6日

  民宿・旅館      10日(うち素泊まりが3日)

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ヤマレコ「小花と春の四国遍路」より

 まだ前半を歩いただけだが、延長千kmを越える遍路道は舗装された車道が大部分を占め、人の歩く未舗装の小道(trail)はごくわずかのようだ。人里の舗装道の中でも、現在の幹線道路を外れた古い街道を歩くのは楽しい。要所には道しるべがあり、あちこちに石仏の見られる風景は風情があってなかなかいい。

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三十九番札所延光寺から宿毛に向かう山越えの遍路道

 

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六番札所安楽寺付近の道しるべと石造物

 

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高知県室戸市吉良川の古い町並み

 遍路に出掛ける前、調味料さえ多めに用意しておけば、食材は行く先々で買えばいいと考えていた。だがこれは大きな誤りだった。地方の衰退などといわれるが、これは山間僻地に止まらない。古くは栄えた商店街だったと思われる通りでも営業している店は少なく、食堂や食材を売る店が無いことはしばしばだった。

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週2日、4往復だけ運行されるバス

 私は朝・夕食が冷めた弁当というのは絶対にいやで、自分で調理した暖かい食事を食べたいと思っていた。運良くスーパーマーケットがあっても、背中にしょって歩けるだけの量を買うのは難しいから、食べたい野菜や果物が買えないことも度々。次は何か工夫をしなければ。

 昼飯も食べ物が何一つ買えず、夕方まで自販機のジュースで腹をなだめながら歩いたトホホな日もある。若い人だったら、スマホを使いこなして必要な情報を引き出すことが出来るのだろうに。

 工夫といえば、1kg程度の米その他を入れたスマートレターを郵便局留めにしておき(うちの山の神に感謝)、行く先々で補給していた。その結果調理できる場所さえあれば、ご飯に振りかけ、それに湯を注いだら出来る味噌汁が定番になった。その分、食堂があれば豪華な昼飯をと心懸けていた。

 

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須崎の道の駅での昼食。これぞ高知の「土佐丼」

 もう一つ困ったのは、宿泊場所が火気厳禁となっている時。付近に食堂・コンビニ等がなければ、寒さに震えながら外で調理するか、それもダメなら空腹に耐えるか。

 その点心強いのはテント泊で、薄い布2枚とはいえ、遮られたテント内は完全なプライベートスペースで、くつろげる空間となる。寝袋一枚で野宿するのとは天と地の差だ。それにテント内で炊事すれば暖かい食事がとれることも大きい。

 

 遍路道を歩いていて、心を熱くしたのは遍路に対する四国の皆さんのもてなしだった。

 私がはじめて「お接待」を受けたのは3日目、十三番札所大日寺に向かっているときだった。道路脇の民家の中から突然「ちょっと待って」「荷物になるけど」と渡されたのが缶コーヒーだった。

 三十七番札所岩本寺の先では、遍路道脇に個人で接待所を開いている(らしい)方に出会った。「ちょっと休んでいきませんか」と声を掛けられ、茶菓でもてなして下さった。旅館や通夜堂・善根宿なども含め、暖かいおもてなしにはただただ感謝しかない。

 お接待はこうした人とのふれあいの中だけに止まらない。燒山寺へ登る山道では、あの険しい山道が見事に掃き清められていたし、太師堂や休憩所・遍路小屋などでは管理者の方、あるいは地域の皆さんが清掃されているようだった。

 

 ところで、中断している遍路の続きがどうなるか。歩き遍路が想像以上に厳しい旅だったから、よりしっかりと計画を立て、トレーニングをしなければ安易に再開出来そうにない。

 この旅の途中で出会った遍路の一人は、腰を痛めて座ることも難しいのに二十七回目の遍路を歩いていた。遍路を続けるのは「お大師さんが来いというから」。私にその境地がくるのだろうか。