別名:鴻殖城・神上堡・神山城
標高377m 比髙190m
主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群
アクセス
真庭市目木から県道327号を北上すると、目木川・余川合流点の向こう側に樫東集落が現れる。神上城は集落の北東側、目木川対岸の丘陵上にある。城の南側谷筋の道に入ると、やがて山腹に向かう山道がある。近年まで山の中腹に民家があったから、しっかりした道が延びている。
神上城は目木川に余川が合流する地点の北東側、鴻殖地区にある。目木川に迫りだした急崖の上に築かれている。
遺構は東西に延びる尾根上200mに渡って広がっており、この尾根を遮断する2本の堀切によって3区分される。最もしっかりと普請されたところは目木川を見下ろす西端の1郭で、ここが主郭と見られる。
主郭西寄りには櫓台と見られる小さな土壇がある。目木川の谷を見下ろす西端には定石通り土塁を盛り、その下方には堀切が刻まれているのだが、この堀切は切岸直下ではなく未加工の緩斜面を30mほど下ったところに築かれたものだ。堀切は両斜面に向けて大きく延ばされており、南斜面側ではこれに並べて五基からなる畝状竪堀群も残る。『美作古城史』の観察では「深さ三尺ないし五尺、長さ四十間の堀切三条」とあって、確認できた遺構の状況とは少し異なる。
2・3郭はいずれも削平不十分で、曲輪面は自然地形に近く、わずかに切岸を造成した程度だ。2郭には「神上城跡 岡本氏」と刻んだ石碑、及び祠(「祖霊社 岡本氏」)が残る。曲輪西端の堀切面には武器として集積されたものか、人頭大から手のひら大の積み石が残る。同様な積み石は3郭でも見られる。城の東方には耕地跡を思わせる平坦面が続く。ここから南斜面中腹にかけて五輪塔を含む多数の墓、近年まで存続した集落の跡がある。
天正9年(1581)10月、羽柴秀吉軍は吉川経家の守る鳥取城を陥落させ、翌年に入るとその主力が山陽方面に進出する。この年3月には「かし村さいしやう小屋」宛てに軍勢の乱妨狼藉等を禁ずる秀吉の禁制が出されている。この文書を載せる『作陽誌』の「神上堡」の欄には「余野・樫村土民構塞、相応」とあり、羽柴軍の進出に呼応して余野・樫村の土民が神上城に籠もったというから、当城はいわゆる「村の城」に該当するのだろうか。
神上城主と伝わる岡本氏は神上城の西麓樫東の土豪で、同家に伝わる記録によれば、羽柴秀吉の中国出陣に際して、織田方に従っていた宇喜多秀家より軍監岩佐八郎右衞門、川端孫九郎、永田右衞門介が差し遣わされ、余野樫村の土豪岡本又左衛門尉らと共に神上城に籠もったという(『美作古城史』)。
参考文献
寺坂五夫 『美作古城史』 作陽新報社 1977年
正木輝雄 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年