杉風呂城 広島県東広島市福富町久芳・豊栄町能良

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 杉風呂城は福富町久芳と豊栄町能良の境にある。江戸時代の地誌『芸藩通志』の戸野村絵図に「仏ヶ丸城」と記載されるものが、この杉風呂城らしい。

 『賀茂郡史』中世武士編に、「仏が丸城 久芳の仏丸にある。能良の後河内で町堺が楔状に久芳へうちこまれている山頂がそれで、高さが471mある。なぜか芸藩通志・豊田郡誌では戸野村の所在となっている」とある。

 つまり旧久芳村・能良村境にある城が、芸藩通志では戸野村の欄に「仏丸城」の名で記載されており、今では何故か「杉風呂城」と呼ばれているのだ。「仏丸」は久芳村の地名による城名だが、では杉風呂の名はどこからきたのだろう。

 芸藩通志の戸野村絵図には、戸野村北端の久芳村境に「トケ風呂谷」「トケ風呂山」の書き込みがある。東広島市役所福富支所で確認したところ、たしかに「解風呂」(とけぶろ)の山林字があり、城跡南方の谷間には戸数数戸の「とけぶろ」集落が現存する。ここはかつて戸野村に属していたらしい。城名がこの地名によるものとしたら「トケ風呂城」。「トケ」を杉の異体字「杦」と誤読、あるいは誤記したのなら、「杉風呂城」が誕生するのだが、はたして。

 城は北東から南西に延びる稜線上のピークに築かれており、曲輪としては山頂部の主郭だけというごく小規模な城だ。『賀茂郡史』に載る縄張図によれば、曲輪は小さな段差で2段に分かれていたらしい。現在、頂部の曲輪は送電線の鉄塔建設によってだらけた緩斜面となっているが、破壊の範囲は曲輪部分に止まっているようで、曲輪の周囲は鋭く切り立った切岸が囲む。

 素朴な小規模城だが、意外にも切岸下に広がる緩斜面には畝状竪堀群が残る。北斜面では浅い堀切2基と竪堀5基を築いて緩斜面を潰しているが、そのほかの緩斜面は竪堀・堀切が数基刻まれるだけで放置されている。こうした点から、杉風呂城は北側の久芳方面を正面とする城と考えられる。

参考文献

 飯田米秋『賀茂郡史』中世武士編  東広島ジャーナル 1984