尼ヶ城 岡山県美作市北山

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 尼ヶ城といえば、美作市北山にも同名の城がある。ただし同じとは言ってもこちらの読みは「あまがじょう」。6月25日付ブログの尼ヶ城にがじょうと同じく横堀に囲まれた城だ。実は他の城跡を訪ねるつもりで美作市教育委員会を訪ねたのだが、たまたまこの城の存在を教示していただいた。同名の城ということに興味を持ち、早速出掛けた。

 城は梶並川を見下ろす丘陵に載る。比高30mという低い丘の築城だが、川に面した急崖部分を除いて横堀に囲まれた城となっている。

 主郭1は南北50m東西40mほどの規模。土塁は南辺と西辺、さらに梶並川沿いの東辺にもうっすらと残されている。浅い空堀を挟んで西側にある2郭は高さ2~3mの土塁に囲まれた曲輪であり、この土塁は東側で1郭の土塁と一体化する。

 いずれの曲輪も切岸は直線的によく加工され、横矢掛かりの折も数ヶ所に認められる。切岸下には幅10mに及ぶ横堀が巡るから、まるで水堀に囲まれた近世の城を見るような完成度の高さだ。

 1郭西辺に虎口が開かれ、2郭からの通路が浅い空堀を渡って入ってくる。2郭西辺にも土塁の切れ目があり、土塁外壁下の堀底からの道が入ってくる。この土塁切れ目が虎口であれば、両曲輪共に平入虎口でしかも一直線上に並ぶことになる。これほどの縄張りを見せる城なのに、通路を屈曲させて横矢を掛けるといった虎口防御の工夫が見られないというのは腑に落ちない。

 2郭の土塁切れ目が後世の破壊によるものと仮定すると、可能性があるのは図中aだ。ここは1郭と2郭に挟まれた浅い堀の北端で、城の外周を巡る横堀とつながる。ここに虎口が開かれていたとすれば、横堀を見下ろす1郭から、さらに2郭からの迎撃が可能となるのだが。

 江戸期の地誌「東作誌」は、尼ヶ城について「低き岡山也、或云尼子の城と云」と記す。尼子軍の美作侵攻は天文元年(1532)から始まり、同6年には美作から播磨国にまで攻め込むなど、美作の諸城は尼子軍の攻撃を受けているから、尼子軍の築いた陣城の可能性はあるだろう。まだ無理だが、いずれ尼子勢の築いた陣城との比較検討をしてみたいものだ。『美作国の山城』では尼子勢が美作国に進出した時期よりよりさらに後の、宇喜多勢など織豊系勢力による陣城の可能性を指摘されている。

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2郭を巡る横堀

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2郭西辺の土塁切れ目(虎口?)

参考文献

 正木輝雄 『新訂作陽誌』1975 作陽新報社

 美作国の山城編集委員会美作国の山城』 2010年