城跡は星ヶ丘団地北東端にあって、宅地開発から何とか免れたという風情だ。丘頂の主郭は西辺が突き出しているものの一辺約20mのほぼ正方形。曲輪は丁寧に削平され、切岸も高く急傾斜に加工されている。主郭の北東側切岸下には横堀が入り、これから派生する3基の竪堀群も残る。
この竪堀群をはじめとして北斜面各所に空堀が築かれる一方、住宅団地に面した南側は城の背後に当たる部分だが、わずかに浅い堀切が1本認められるに過ぎない。北側谷筋を正面とする城であったものと思われる。
主郭切岸下には小規模な腰曲輪がいくつか築かれているが、削平はわずかで形も整えられていない。切岸形成時に発生した緩斜面に過ぎないのかもしれない。竪堀群の脇から北東に延びる尾根上や主郭北西下にも曲輪らしい平坦面があるが、いずれも不明瞭であって、基本的には単郭プランの城と言える。
現在城跡は公園の一部として林が見事に手入れされ、遊歩道も整備されているから、遺構の様子が手に取るようにわかる。中世の小規模城を実感できる城となっている。
『芸藩通志』が東殿山城主と記す横山民部丞は、当城の東1kmにある関山城に拠った横山右馬介眞高の一族らしい。天文10年(1540)郡山合戦に敗れた尼子軍が撤退したのち、尼子方についていた武田氏が大内軍に攻撃されて滅亡。横山眞高はその翌年大内義隆から鈴張内23石余の地を与えられている(広島県史古代中世資料編Ⅳ)。