松岡城 広島県世羅郡世羅町川尻

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 世羅町中心街の東方に標高532mのなだらかな山があって、松岡城はこの山頂から西に延びた尾根の先端付近の小さなピークに築かれていた。背後に迫る山からは城内がたやすく見透かされてしまうような城だから、大して期待もしなかったのだが訪れてびっくり。

 主郭は長辺55m、短辺10~20mほどのやや大振りな曲輪で、東側から南側にかけて削平の不十分な腰曲輪が囲む。主郭西側にも小郭が付属するから、合計3郭で構成される小規模城郭だ。いずれの曲輪も自然の地形に任せてゆがんだ形のままだし、切岸は不明瞭だ。その上主郭北端の堀切面には土塁も無い。

 安普請の城だなあと思いつつ、城の西側に回り込んで驚いた。主郭の切岸下、谷沿いの斜面に14条からなる畝状竪堀群が築かれていたのだ。緩斜面に築かれているから、竪堀群というより土塁が行儀良く並んでいるといった方が正確かもしれない。土塁の規模は地形の影響を受けているようで、大小ざまざま(下写真)。背後の堀切は不明瞭なものが1条。堀切を東斜面側に下っていくとここにも4条からなる畝状竪堀群が築かれていた。

 江戸期の地誌『芸藩通志』は、松岡城の主を林肥前守就長と伝える。同書の川尻村絵図には「松岡古城跡」その南側山麓には「土居」、さらに「土居垣内」「寺垣内」「モンゼン」といった書き込みが見えるから、山麓には平時の居館が営まれていたのかもしれない。

 林家系図によれば、就長の父菊池武長は備中国浅口家に身を寄せていたが、その後毛利元就に仕え林を名乗ったという。就長とその子元善は毛利輝元重臣として活躍し、牛の皮城主森光氏の給地だった御調郡593石をはじめとして合計2290石の給地が与えられている(萩藩閥閲録巻91)。

 川尻にある聖神社には、宝物として松岡城主林肥前守就長寄附と伝える兜一つ、鎧二領があるという。

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松岡城全景

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畝状竪堀群。竪堀に挟まれた土塁は大小様々

 参考文献

  岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』 1999年 マツノ書店