青山城 広島県三次市三和町羽出庭

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 青山城のある三次市三和町広島県のほぼ中央に位置し、町の南端東広島市境は陰陽の分水界にあたる。一帯は江ノ川の支流板木川の上流域で、小起伏の丘陵地形が広がる山間の小盆地である。安芸高田市甲田町から三和町に抜ける峠を馬通峠(まどおしたお)と呼ぶが、ここが安芸と備後の国境をなす峠だった。青山城はこの峠からほど近い所に置かれた小さな要害である。

 応仁の乱で西軍に属した毛利豊元は、戦功によって備後国伊多岐(現三和町上板木・下板木・羽出庭・大力谷・福田)に所領を獲得。こののち伊多岐は毛利氏が備後国に進出する際の橋頭堡となっており、毛利軍が備後各地さらに備中・美作方面に遠征する際にはしばしばこの地に在陣しているから(萩藩閥閲録巻77など)、当城も陣所として利用されていたのかもしれない。

 青山城に関する記事は江戸期の地誌『芸藩通志』・『西備名区』いずれにも載らず、上記三和町誌以外では文化庁編『全国遺跡地図』が「青木城」の名で当城の存在を記載しているにすぎない。このようなことから、城の存在はごく限られた地元地域で伝承されてきたもののようだ。

 城は上下二つの郭からなる。頂部の主郭は長辺35m、最大幅30mほど。曲輪面の削平はわずかで、堀切に面した南端の土塁部分から北に向けて緩やかに下降する曲輪面をなす。下段の曲輪は上段の曲輪とは対照的に丁寧に削平された曲輪で、空堀群を見下ろす西辺に高さ1m前後の土塁が残る。曲輪の周囲は高さ5~6mの急傾斜に仕立てられた切岸が囲み、切岸下には横堀が巡っているから、低い丘に載る城ではあるが意外にも厳しい要害となっている。

 注目は曲輪の東側、横堀から派生する14基の畝状竪堀群を設けていることだ。この空堀群の存在はかなり早くから知られており、1968年発行の『三和町誌』に「東・北・西の三方に放射状の竪堀を巡らし、急直下の谷をつくる」とある。竪堀群はいささか乱雑に造成されたものだが、長さ10~30㍍、深さは最大で3m。この竪堀群の築造によって城の東側に広がる緩斜面を寸断している。

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青山城全景。後方に大土山が見える

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主郭。奥に土塁が見える

参考文献

 三和町誌編纂委員会編『三和町誌』 1968年

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』34 広島県  1982年