笠城山城  広島県三次市糸井町

標高310m、比髙110m 

主な遺構:堀切・竪堀・土塁・石積み・畝状竪堀群

アクセス

 三次から東広島方面へ向け国道375号を南下。広島県立歴史民俗資料館前を過ぎ、三次市糸井町に入ると美波羅川西岸にお椀を伏せたような山が見える。これが笠城山城だ。美波羅川を渡る手前、道路脇に胡子神社の小さな祠が見えたらその手前を右折。城山東麓まで進むと駐車場があり、案内板も設置されている。

f:id:kohanatoharu:20210418155020p:plain 地理院地図(電子国土web)に加筆

 

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 江戸期の地誌によれば城主を糸井孫右衞門と伝えるが、どんな人物なのかよくわからない。本城のある糸井を含め、三次市三若町から高杉町にかけての美波羅川下流域は中世の江田荘にあたり、旗返城に拠る江田氏の支配地域であった。江田氏は天文22年(1553)大内方から尼子方に寝返ったため、大内・毛利軍に滅ぼされた。糸井村はその恩賞として和泉氏に与えられたというから(西備名区)、糸井氏は江田氏と共に滅びたということらしい。城の北東300m、美波羅川に臨む河岸段丘北端には城主の居館跡と思われる糸井土居館があって、空堀や土塁の一部を残していた。  

 城の中核部は山頂にある1郭とそれを取り囲む2郭、その西側堀切面には中央部を掘り窪めたようにも見える土塁囲みの郭など、4つの郭が小さな段差で築かれている。その東側一帯は、詳細に眺めると三日月状あるいは帯状の曲輪が小さな段差で築かれてはいるのだが、削平は不十分であって緩斜面をそのまままとめて囲い込んで城郭内に取り込んだ状態に近い。

 主郭背後の堀切は4重。堀切に隣接して主郭部南斜面に3本の連続竪堀、やや離れてもう1本が築かれていて畝状竪堀群と見なせる。ただ、通常竪堀は切岸下端から築かれているのだが、本城では切岸があまり発達せず、郭の縁から築かれたものだ。背後の堀切面でも状況は似ており、堀切面の曲輪と堀底の高度差は約6mあるが、さほど急傾斜に加工されているわけではない。

 城道の保存はあまり良くない。現在の登城路は南斜面に回り込むルートとなっているが、これは城山整備の際につけられた道らしく、本来の通路は未確認だが、東端にある土塁囲みの3郭が虎口曲輪と思われる。

 城の防御面でポイントとなる背後の堀切面と東端の両郭を土塁囲みとしていること、畝状空堀群の存在に注目すれば、なかなかの堅城に思えるが、一方では加工不十分な曲輪を残し、切岸の加工も甘い。なにかちぐはぐな印象を受ける城だ。

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笠城山城全景

 

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主郭部

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3郭の石積み

参考文献

 三次市史編纂委員会 2004 『三次市史』