鳶巣山城  広島県三次市三良坂町長田

標高220m 比髙40m  

主な遺構:堀切・竪堀・土塁

アクセス

 三次市街から国道184号を三良坂方面へ向かう。三良坂市街に入る手前で右折して国道を離れ、馬洗川南岸の小川集落に向かう。集落内からは城跡北側の墓地まで車道が延びている。墓地から先は藪こぎとなる。

       

 城は馬洗川と長田川の合流点にせり出した低丘陵先端に築かれている。低い丘にしては馬洗川・長田川の川筋に視界が広がるから、要所を占めた城と言えるのだが、丘上には何とも奇妙な遺構が広がっていた。

 城の載る丘の頂上には緩やかな斜面が広がり、曲輪として成形したものとは思えない。ただよく見ると西辺はわずかに加工されて切岸が見られ、虎口のような部分(a)もあるのだが、いずれにしても城の中心的な曲輪とは考えられない。

 一方、北側の鞍部に面した虎口曲輪は実に立派に出来ている。その規模は東西25m南北15mほどで、直線的に整形した人の背丈ほどの土塁が全周を囲む。その外壁面は高さ3~4mの鋭く加工された切岸で、浅い折も入る。

 北辺に開いた虎口の前面には左寄りに二重土塁、右寄りには二基の堀切を刻んで虎口に至る道筋を狭め、進攻する敵に備える。

 ほとんど手を加えないまま放置した主郭部と技巧を凝らした虎口曲輪。極端な対照を見せる城となっている。それにしてもこんな奇妙な城が何故築かれたのだろう。

 江戸期の地誌によると城主は青山下野守常彦。青山は吉舎南天山城に拠った和智誠春の家臣であって、誠春の娘婿伊藤新左衛門重綱と共に本城に居城していたらしい。

 永禄12年(1569)毛利隆元急死の責任を問われた和智誠春が、元就の命により厳島で殺害された後、その子元郷が許されて本城に居城したが、のち吉舎に移ったとされる。 

   

鳶巣山城(南麓から撮影)

参考文献

 『芸藩通志』 芸備郷土史刊行会 1973年

 三良坂町誌編纂委員会『三良坂町誌』1973年

 広島県双三郡三次市史料総覧編集委員会広島県双三郡三次市史料総覧』1985年