HENRO TRAILを歩いた ①

 2022年3月6日から30日まで、はじめて四国遍路に出掛けた。その旅の模様や感じたことなど、あれこれ取り上げたい。

 出掛ける前に準備したのがへんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人』(地図編)。本の表紙裏には遍路に出掛けた勝蔵という者が所持した往来手形が載せられていた。

 手形は江戸中期の安永5年、安芸国(ママ)三好十日市庄屋が発行したもので、万一行き暮れたら宿を提供してほしい、どこで死んでもその土地の作法で葬ってほしい、国許への連絡は不要とある。だから遍路の白衣は文字通り死に装束だったわけで、行き倒れを覚悟して出掛ける旅だったということだ。

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 3月6日昼前、JR高徳線板東駅に到着。四国八十八カ所一番札所霊山寺門前で白衣・菅笠(日除け・雨傘を兼ねるから欠かせない)・納札・経本・納経帳・ろうそく・線香を購入。ほとんどの人が携える金剛杖はストックで代用する。

 これで一応遍路姿が出来たのだが、どこまで遍路道を歩き続けられるか。ウチの山の神は一週間も続かないと思っているから、せめてそれ以上は頑張らねば。

 1日目は五番札所地蔵寺まで。2日目は十番切幡寺まで参拝し、吉野川を渡って南岸にある遍路小屋でテント泊。翌朝マイナス1度と冷え込む朝となったが、テントのお陰で川風が防げ、心地よい眠りとなった。

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吉野川の堤防上から撮影。奥に沈下橋、その先に中州の「善入寺島」が広がる

 この日驚いたのは吉野川。高さ10mはあろうかという川岸の堤防を登ると、目の前には沈下橋とその先に巨大な中州が広がっていた。中州の名は善入寺島。その長さ6km最大幅1.2km。日本最大の中州だという。

 大正の頃まで数百戸の人家に学校まであったが、台風などによる洪水の度に氾濫が繰り返したことから住民を退去させ、現在は野菜畑の広がる無人島となっている(現地案内板より)。

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四番札所大日寺への道標と古い遍路道

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三番札所金泉寺

 

 3日目、十一番札所藤井寺を過ぎると難所の「へんろ転がし」。これは遍路道の難所の呼び名だが、最大の難所が十二番札所燒山寺に至る12kmほどの山道だという。燒山寺の標高は710mなのだが、谷を二つ越えて登るから合計1200mの登りとなる厳しいコース。

 コースのなかば、標高745mの尾根越えの所に一本杉庵がある。こんな山の上にまでどうやって運び上げたのか、まるで想像もつかないのだが、巨大な大師像が安置されていた。

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一本杉庵の大師像

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燒山寺山門

 雪が残る山道を登り、へとへとになってたどり着いた十二番札所燒山寺。寺は修験道の開祖役行者が庵を結んだことに始まるというから、山道のキツさも道理でと納得。

 寺から急な坂道を1時間ほど下ったところの鍋岩は現在戸数数戸の小集落だが、かつては小学校もあって鉄筋の立派な校舎が残る。今夜の宿となるすだち庵は、その職員宿谷だったと思われる建物にある。

 宿の主人は何度目かの遍路の途中、この鍋岩で宿の後継者になってくれないかと頼まれて引き受けたといい、笑顔のかわいいお手伝いの娘さんも遍路を中断して働いているという。お二人には様々お世話になりました。感謝です。

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