平井城   広島県世羅郡世羅町重永

標高390m、比髙30m

主な遺構:土塁・横堀

アクセス

 世羅町中心街から国道432号を西へ進む。京丸交差点で左折して県道408号に入り、これを南下すると、道路脇に平井城登り口を示す石柱が設置されている。

        

 特異な縄張りの城といえば、この城も間違いなく当てはまるはずだ。福山市に河口を持つ芦田川の上流部、世羅町重永にある平井城である。

 江戸期の地誌によれば、平井城の主は天正の頃長満伊予守光綱とするが、長満氏がどんな人物なのか皆目分からない。

 建武三年(1336)九月、重永と大田の境で北朝方と南朝方の合戦が起こり、「重永城郭」に立て籠もった南朝方が追い落とされているが、この重永城郭は当城の北東1km、尾根続きの丘陵上にある玖留毘城とされる(案内図参照)。平井城との関連が注目されるが、本城は戦国期の特徴をみせる城だから、この戦いとの関連は薄いものと思われる。

 

 城は南に延びる低丘陵先端の小ピークにある。山頂部の主郭(1)は長辺50m、短辺40m程度とかなり大型の曲輪で、南辺を除く三方を浅い横堀が囲む。背後の尾根続きに面した部分ではさらに3重の横堀が階段状に築かれているが、尾根筋を外れると帯曲輪状に替わる。

 階段状に築かれた横堀相互間の比高は1~3mに過ぎないから、背後に対する障壁としての威力は大きくないはずだ。4重もの横堀を連ねるより数を減らしても巨大化した方が有効だろうにと、不思議に思える。

北斜面の横堀

 主郭南西隅には一段低く、両側面を土塁で囲まれた小郭2がある。西辺に突起部を持つのは、南麓からの登城路に備えたもののようだ。土塁は曲輪南辺に回り込んだのち、下方の腰曲輪側面を守る竪土塁につながる。

 南麓からのゆるやかなスロープを上っていくと、この土塁囲みの突起部の下に導かれる。ここからは城の西側を巡る堀底道や、袋小路の堀底道が分岐していて、複雑な様相をみせる。これらのことから、本城は在地領主の本拠となった城ではなく、臨時的な軍事拠点のように思われる。

 城の載る丘は比髙わずか30mの低丘陵であって、全域が後世の耕地化による影響を受けているはずだから、どこまでが城の遺構なのか、判断の難しいところだ。

平井城全景(南側から撮影)

参考文献 

  広島県広島県史』中世  1983年

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会 1973年