標高550m 比高20m
主な遺構 土塁・畝状竪堀群
アクセス
神石高原町役場のある小畠から県道29号を南へ1kmほど進んだところで右折。城址は右手に見える低い丘の先端にある。
城は民家裏手にある低い丘に築かれていて、城の周囲は階段状に切り開かれた農地が取り囲む。縄張り図には数段の曲輪として示したが、果たしてどこまでが城の遺構なのか判断がむつかしい。少なくとも北辺に土塁を備えた1郭だけは城の遺構に間違いなさそうで、丘上に営まれた土居屋敷のように思える。
実は、1郭から少し東にそれた北斜面側には4基からなる畝状竪堀群(といっても斜面を下る土塁型のもの)が残されていた。何せ広島県内には合計130カ所もの城館に畝状竪堀群が見られるから、大して珍しい設備ではないが、土居屋敷と思われる大壺城に見られたのは驚きだった。
土居屋敷のたぐいの城館で畝状竪堀群を備えた城として、当ブログでかつて取り上げた「俣野の土居城」がある。その名前の通り、土塁・空堀囲みの方形居館の姿を見せる城であり、その土塁外壁下に10基ほどの畝状竪堀群が築かれていた。kohanatoharu.hatenablog.com
城の遺構のなかで、竪堀のような斜面の施設は日常生活との関連が薄く、従って軍事的緊張の高まりの中で、防御力強化のために構築されるはずだ。土豪の日常生活の場である土居屋敷の周囲に畝状竪堀群が築かれていれば城、この場合館城と呼べるだろう。いまさらながら、辞書で「館城やかたじろ」を調べてみた。
館で城を兼ねたもの、やかたじろ (広辞苑)
邸宅と城とを兼ねたもの(日本国語大辞典)
館、つまり日常居住の邸宅と城とを兼ねたものをいう (日本城郭大系)
『三和町誌』は岡田但馬守員正入道・同孫八郎の居城と記す。当城の南方には大寄山城があり、江戸期の地誌「西備名区」は城主をこの岡田但馬守としているから、大壺・大寄山両城の関係を詰城と平時の居館の関係と見ているらしいのだが、はたして。
参考文献
「西備名区」(『備後叢書』 東洋書院 1990年)