俣野の土居城 鳥取県日野郡江府町俣野

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 土居城のある江府町俣野の尾上原は名峰伯耆大山の北側にあって、岡山県境に聳える金ヶ谷山(標高1164m)から北西に伸びる支脈の先端が、低くなだらかな丘陵となった所に築かれている。

 城は四方土塁空堀囲みの方形居館プランだが、城の載る丘の歪みに合わせてわずかに歪み、東西幅70m、南北幅55m~80mの規模。大まかに言えば70m四方程度の規模といえる。これで吸収しきれない南東側突出部は櫓台としている。

 城の尾首に当たる東側は尾根筋をわずかに遮断する堀切が確認出来るだけだが、残る三方には横堀が巡る。西辺中央部には虎口が開く。横堀に架かる土橋を渡って城内に入るものだが、単純な平入虎口で横矢などの防御の工夫は認められない。

 驚いたことに南辺土塁外壁下には畝状竪堀群が残る。切岸下に刻まれた横堀から発生するもので、竪堀数は10基、長さ5m程度の短いものだ。一方緩斜面の広がる北側では切岸下の横堀も不明瞭だ。後世の破壊によるものなのかもしれない。

 いずれにしても居館の周囲は分厚い土塁と横堀に囲まれ、畝状竪堀群まで備えていることから、城郭的な防御機能を併せ持つ館城といえる。

 土居城とよく似た構造を持つ城として広島県東広島市の御薗宇城がある。この城は安芸国の有力国衆平賀氏の営んだ居館で、比高20mほどの丘に営まれた居館は三方土塁囲み、100m四方ほどの規模を持つから、尾上原土居城の主は規模からみて有力国衆に次ぐクラスの領主といえそうだ。

 『伯耆志』には「古陣屋」の名で載り、「土人の口碑に往古フジユキと云ふ人住居せし」と記す。さらに『江府町史』は「フジユキさん」がある冬の夜敵襲を受け、作州に逃れたがここで落命したという古老の言い伝えを紹介している。

 明徳の乱(1391)ののち、伯耆国守護山名氏は国内の要衝に一族を配置しており、日野郡には山名師義の長子義幸が配置されている(江府町史)。

 この「フジユキさん」は日野氏書上(萩藩閥閲録巻29)に見える日野郡生山城主山名藤幸らしく、藤幸は山名義幸の末裔ということになる。書上によれば、備後西城の大富山城を拠点とする宮景盛の二男景幸は山名藤幸と養子契約したが、藤幸に毛利に対する逆意ありとして、藤幸を討ち取って山名家を相続したという。地元に伝わるフジユキさんの伝承と重なる。

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土居城全景(北西隅土塁上から撮影)

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西側の空堀。右端には土塁、奥に日の詰集落が見える



参考文献

 江府町史編さん委員会『江府町史』1975年

 鳥取県公文書館 県史編纂室『尼子氏と戦国時代の鳥取』2010年