上田城  広島県三原市久井町下津・江木

別名:高城、高根山城、茶臼山

標高 450m 比髙80m

主な遺構:堀切・竪堀・土塁

アクセス

 山陽自動車道の三原久井ICから県道25号を北上。大和方面に向かう県道345号の分岐を過ぎるとすぐに宇根山家族旅行村の案内板が現れる。ここを右折し御調川を渡って再び右折して、山裾に沿って進めば、山裾の遺構が正面の丘に、上田城はその背後の山頂にある。

        

  

 城は標高450mの丘頂部と南麓の遺構からなる。丘頂部の遺構は東西方向に延びる尾根と、南方向に派生する尾根上に広が。その規模は長辺190m、短辺120mほど、きっちりと普請された城となっている。

 一方、意外に堀切・竪堀は少ない。堀切は北斜面側に2基(a・b)、南西尾根に1基(c)を残すが、尾根をわずかに遮断するだけで、これを下方斜面に伸ばして遮断効果を高めようとしていないし、堀切その他の防御施設が確認できない尾根も残る。

 南尾根の先端では堀切に替わる放射状の竪堀が4基、やや乱雑に築かれている。城内最大の曲輪である4郭では、山腹斜面に面した曲輪の両側面を竪堀状に削り落としているから、主郭の下方斜面に横矢をかける効果が生まれているようだ。

 土塁は皆無に近く、わずかに2郭から3郭の両側面に伸びる土塁が見られるにすぎない。1つの曲輪に複数の通路がつけられたものもあるなど、城内には非常に多くの通路が残る。人里に近い山だから、後世山仕事のために付けられた道も含まているはずだ。

 

 地元で「城(じょう)」と呼ばれる南麓の遺構は、南麓からの登城路を監視する出城・出丸と考えられる。2段に分かれた曲輪の全長は約40m、幅15mほど。上段の曲輪の東辺土塁脇に虎口が開く。背後に堀切は確認出来ないが、北面を土塁で囲み、急角度に加工された切岸に守られている。

 

 城のある久井町下津・江木は、福山市に河口を持つ芦田川の源流部に位置する。上田城久井町内11カ所の城館の中で最大規模の城なのだが、何故か江戸期の地誌『芸藩通志』の城墟欄にも、下津・江木両村の絵図にも当城の記載が無い。

 一方、同じく江戸期の備後国地誌『西備名区』御調郡下津村の欄にはー

  茶臼山城  

  一作高城、また高根山城 此山南面は下津村分、天守台其外三方は江木村野山なり   

とある。所在地からみてこれが上田城に当たるようだ。城主については山名左近将監の名を伝え「永正没落」と記す。城主名から備後国の守護山名氏との関連が想像されるが、詳細は分からない。

 もう一度『芸藩通志』を開き、「士官流寓」欄を見るとー

  山名三郎豊澄 

    豊澄は文明年中尼子に属して下津村杭城に居る、子左近に至りて滅ぶ

とある。山名豊澄の拠ったという杭城はこの上田城のようだ。 

 そうすると上田城には茶臼山城・高城・高根山城・杭城と、ずいぶん沢山の別名があることになる。「杭城」の名は中世この地にあった「杭庄」に由来するとすれば納得できるのだが、困ったことに久井町下津には別の「高根山城」がある。その場所は上田城から南東に延びた尾根の先端部だ(案内図参照)。

 

 この高根山城について『芸藩通志』城墟欄には、

「高根山 八幡城  並に下津村にあり、高根は山名三郎豊澄、同左近が所居、山名家系譜に、備後杭城に居るとあり、高根山のことと見えたり、八幡城は主名詳ならす」

                     ※「八幡城」は上田城西方の陶八幡城と思われる。

ここでも城主として山名豊澄の名が出てくる。これら記述のつじつまを合わせるとすれば、山名氏の拠った上田城は山頂の遺構と、南麓にある2カ所の遺構(城じょう・高根山城)からなっていたと考えることになりそうだ。

 城名や由来といった城跡を巡る伝承で、江戸時代の地誌がこれほど混乱した記述を見せるのは珍しい。なお「上田城」の名は『日本城郭大系』・『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』による。

 

参考文献

 西本省三編「日本城郭大系』13広島・岡山 新人物往来社 1980年 

 広島県教育委員会広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第3集 1995年

 『芸藩通志』芸備郷土史刊行会1973年

 「西備名区」  得能正編『備後叢書』第3・4巻 東洋書院 1990年

 久井町誌編纂委員会『久井町誌』   1997年