標高178m 比髙110m
主な遺構:堀切・畝状竪堀群
アクセス
美郷町役場のある粕淵から国道375号を南へ。やがて江の川沿いの道となり、都賀行の指示板が現れる。これを通り過ぎて約1km、右手に現れる橋が高梨大橋だ。高梨城は江の川の対岸、送電線の鉄塔が見える山にある。東麓の民家脇に登り口がある。
高梨城は江の川の川岸から立ち上がる急峻な山に築かれている。独立標高点のある丘頂の1郭が主郭らしく、ここからうねりながら南西に伸びる尾根上に曲輪が連なる。険しいやせ尾根に築かれた曲輪は細長く歪んだ形であり、急峻な地形が影響してか、尾根筋をはずれた山腹に曲輪は築かれていないし、登城路や曲輪相互間を結ぶ通路も不明瞭だ。
本城の注目点は何といっても堀切・竪堀群による堅い防御の構えである。標高178mの丘頂を占める主郭(1)の周囲で見ると、東尾根では尾根を挟んで八の字型に竪堀を下ろし(a)、尾根伝いに攻め上る敵兵の動きを制限している。西尾根のbも同様。北斜面cの部分では長短・広狭のばらつきはあるのだが、尾根を無視して竪堀を並べ築いた放射型の竪堀群となる。
背後に続く丘陵を見下す3・4郭の周囲では堀切と竪堀群を複雑に組み合わせて尾根筋に備えている。その中で図中d・eは隣り合う堀切の先端が合流する形だから、槙尾城(2021年10月13日付ブログ)で取り上げたように、邑智郡南部に勢力圏を有した高橋氏の城に特徴的な形態だが、下に記すように高橋氏との関連は薄そうだ。
弘治元年(1555)、毛利元就は厳島合戦で陶晴賢の率いる大内軍を破ったのち、周防に進攻する。これと並行し、尼子氏の攻勢に備えて石見にも兵を進めていた。翌2年(1556)の3月、元就は吉川元春・宍戸隆家・志道通良を石見国東部江の川沿いの地に派遣しており、同年5月には石見銀山への通路で尼子方との戦いが発生している(熊谷家文書、新裁軍記)。
江の川沿いの都賀行には高梨城のほかに、川に面した低丘陵に載る水玉山城(案内図参照)があって、いずれの城も川本の温湯城(邑智郡川本町)を本拠とする小笠原氏が築いたものという。この頃小笠原氏は尼子方に属しており、この両城に残る落城の伝説は毛利軍との戦いによるものかもしれない。
毛利隆元は同年12月、岡宗左衛門光良に「都賀行」の城番を命じているが(閥閲録巻95)、都賀行の城とは水玉山城・高梨城のいずれだろうか。『大和村誌』は水玉山城とするが、岡が在番したのは尼子方との戦いに備えた最前線の城だから、竪堀群で厳重に防御を固めた高梨城のように思える。あるいはこの両城を守備した可能性も考えられる。
参考文献
第1集 石見の城館跡 1997年
『日本城郭大系』13広島・岡山 新人物往来社 1980年
大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年