寺町城  広島県三次市向江田町寺町

標高290m 比高50m

主な遺構:土塁・畝状竪堀群

アクセス 

 三次市街から吉舎方面に向けて国道184号を進むと備北農道との交差点がある。ここを左折し庄原方面に向かう。JR芸備線を越えてしばらく進むと、道路左手に寺町廃寺跡がある。寺町城はこの寺跡西方の尾根上にある。

       

   

 寺町城は前回のブログで取り上げた茶臼山城(三次市向江田町)の東方、400mほどの地点にある。単郭の城で、曲輪の規模は南北70m東西30mほど。北辺から東辺にかけて土塁を巡らす。東辺に開かれた虎口は土塁を屈曲させて横矢掛かりの工夫を凝らしたものであり、南辺にも食い違い虎口が見られる。

 注目されるのは曲輪の東西両辺の間で極端な差が見られることだ。西辺は切岸の造成すら不十分なまま放置する一方、土塁囲みの東辺は直線的に整えてあり、高さ3~4mの切岸下にはうっすらと横堀も見える。さらに横堀下には8基の竪堀群まで刻まれる。

 従って本城は東方面を強く意識した縄張りと言える。在地領主の本拠城であれば、これほど極端な指向性は考えられないから、茶臼山城と同様陣城のように思われる。

 

 文化庁の『全国遺跡地図』には国兼川の東方に茶臼山・天良山・寺町城の3城が載るものの、江戸期の地誌『芸藩通志」には記載されておらず、詳細はわからない。

 

 

参考文献

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』広島県  1982年

茶臼山城  広島県三次市向江田町

標高311m 比髙130m  

主な遺構:土塁・横堀

アクセス

 JR芸備線下和知駅から南へ1km、線路沿いに三次市立和田小学校が見えれば、茶臼山城は小学校の東側丘陵上にある。丘の南麓下山手から山道が延びている。

        

 茶臼山城は標高311mの丘頂部の遺構(縄張り図A)とその東方200mの丘頂に残る遺構(B)からなる。Aでは削平など加工の痕跡は確認出来ず、なだらかな丘頂部を鉢巻き状に囲む土塁・空堀・切岸が残るだけだ。曲輪内には崩れかけた古墳数基も残る。

 土塁の高さは数十cmから1m程度。堀の深さや切岸の高さも最大2mまでで、防御施設としては極めて貧弱というほかはないが、南辺では土塁を雁行状に築いて3カ所の食違い虎口を設けているし、塁線の折も数ヵ所認められる。このような特徴から陣城跡と考えてよいだろう。 

 ここから東へ、尾根伝いに100mほど進んだ地点に残るBの遺構はがらりと様相を変える。曲輪1・2・3の切岸や土塁の造作が丁寧であり、塁線を直線的に整え、横矢掛かりを意図した折が至る所に入る。

 1郭東辺の虎口( a) は左右の塁線をわずかにずらした食い違い虎口。南端部は尾根伝いの山道が3郭を通過しており、原状が不明瞭となっている。ただ曲輪面の削平はやや甘く周辺に向けわずかに傾斜する。

 

 茶臼山城西麓の菅田(案内図参照)は、大永7年(1527)尼子軍と大内・毛利軍が戦った和智細澤山合戦の地である。八千が壇城など和知周辺に布陣した尼子方に対し、大内・毛利軍はこの茶臼山城などに布陣したものと考えられている。

 江戸期の地誌『芸藩通志』は向江田村の城跡として、国兼川(案内図参照)西方の「天良山城」を挙げるだけで、国兼川東方に城跡は記載されない。何らかの理由で記載漏れしたのかもしれないが、陣城の場合、芸藩通志編纂者が城跡とは区別し古戦場として扱っているケースがあること、臨時的な城塞であれば忘れ去られたということも考えられる。なお、国兼川西方にも「天良山城」は確認されていない。

 本城の名称については混乱があり、A・Bの遺構を別の城とするものもある。文化庁の『全国遺跡地図』ではAを天良山城、Bを茶臼山城とするが、『三次市史』はこの遺構全体を瀬戸山城と呼び、その一部(恐らくB)を茶臼山城としている。

 

 

参考文献

 三次市史編纂委員会『三次市史』 2004年

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』広島県 1982年  

 長谷川博史「大永七年備後国和智郷細沢山合戦と陣城遺構」(『芸備地方史研究』230号)