茶臼山城  広島県三次市向江田町

標高311m 比髙130m  

主な遺構:土塁・横堀

アクセス

 JR芸備線下和知駅から南へ1km、線路沿いに三次市立和田小学校が見えれば、茶臼山城は小学校の東側丘陵上にある。丘の南麓下山手から山道が延びている。

        

 茶臼山城は標高311mの丘頂部の遺構(縄張り図A)とその東方200mの丘頂に残る遺構(B)からなる。Aでは削平など加工の痕跡は確認出来ず、なだらかな丘頂部を鉢巻き状に囲む土塁・空堀・切岸が残るだけだ。曲輪内には崩れかけた古墳数基も残る。

 土塁の高さは数十cmから1m程度。堀の深さや切岸の高さも最大2mまでで、防御施設としては極めて貧弱というほかはないが、南辺では土塁を雁行状に築いて3カ所の食違い虎口を設けているし、塁線の折も数ヵ所認められる。このような特徴から陣城跡と考えてよいだろう。 

 ここから東へ、尾根伝いに100mほど進んだ地点に残るBの遺構はがらりと様相を変える。曲輪1・2・3の切岸や土塁の造作が丁寧であり、塁線を直線的に整え、横矢掛かりを意図した折が至る所に入る。

 1郭東辺の虎口( a) は左右の塁線をわずかにずらした食い違い虎口。南端部は尾根伝いの山道が3郭を通過しており、原状が不明瞭となっている。ただ曲輪面の削平はやや甘く周辺に向けわずかに傾斜する。

 

 茶臼山城西麓の菅田(案内図参照)は、大永7年(1527)尼子軍と大内・毛利軍が戦った和智細澤山合戦の地である。八千が壇城など和知周辺に布陣した尼子方に対し、大内・毛利軍はこの茶臼山城などに布陣したものと考えられている。

 江戸期の地誌『芸藩通志』は向江田村の城跡として、国兼川(案内図参照)西方の「天良山城」を挙げるだけで、国兼川東方に城跡は記載されない。何らかの理由で記載漏れしたのかもしれないが、陣城の場合、芸藩通志編纂者が城跡とは区別し古戦場として扱っているケースがあること、臨時的な城塞であれば忘れ去られたということも考えられる。なお、国兼川西方にも「天良山城」は確認されていない。

 本城の名称については混乱があり、A・Bの遺構を別の城とするものもある。文化庁の『全国遺跡地図』ではAを天良山城、Bを茶臼山城とするが、『三次市史』はこの遺構全体を瀬戸山城と呼び、その一部(恐らくB)を茶臼山城としている。

 

 

参考文献

 三次市史編纂委員会『三次市史』 2004年

 文化庁文化財保護部『全国遺跡地図』広島県 1982年  

 長谷川博史「大永七年備後国和智郷細沢山合戦と陣城遺構」(『芸備地方史研究』230号)