三角山城  広島県三次市甲奴町抜湯・太郎丸

別名:太郎丸城

標高440m 比髙80m

主な遺構:堀切・畝状竪堀群 

アクセス

 甲奴町中心街の本郷から県道51号を総領町方面へ。甲奴町抜湯で県道426号の分岐する交差点がある。三角山城はこの交差点の西方、川の北岸に見える丘の東南端にある。県道51号をさらに500mほど進むと峠の切通し部分があり、ここから登る。

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 遺構は全体的に不明瞭で、随所に自然地形を残す。主郭北東端からその下方の腰曲輪にかけては丁寧な加工痕を見せるのだが、主郭の削平は不十分なまま。南に延びる稜線上にも数カ所の削平痕が認められるが、いずれも極めて不明瞭だ。さらに50mほど進んだ所にぽつんと申し訳程度の堀切一条があって、ここが城域の南限らしい。城の背後に当たる主郭西側には浅い堀切一条があるだけで、堀切面には土塁もない。その先に延びる尾根筋に広がる緩斜面も未加工のまま放置している。

 ところが吉田寺を見下ろす城の北東側は二重堀切とし、これに並べ築かれた竪堀群が1郭西側の堀切までの間を埋め尽くしている。抜湯川の谷筋を見通す位置に防御施設を集中させているから、東方を意識した築城と考えられる。いずれにしても築城者はここを継続的な居住空間に仕立てようとしたものとは思えない。土豪など在地領主の居城ではなく、戦時の臨時的な砦跡と考えた方がよさそうだ。

 びっしりと竪堀を築き並べて厳重に守りを固めながら、何故か曲輪の普請には不熱心で、だらけた緩斜面の残る曲輪だったり、切岸の加工が甘かったり。本城に限らず、畝状空堀群を持つ城の中にはそうした城が多いように思われる。

 江戸期の備後国地誌『西備名区』には「太郎丸城」の名で載る。城の主は南北朝の観応の頃秋山五郎入道、天文年中より毛利家に属したというが、詳細はわからない。

主郭。周辺部はなだらかに傾斜する

北東側の腰曲輪

吉田寺跡

寺跡には文禄五年(1596)丙申の銘のある宝篋印塔一基が建っている。

参考文献

 甲奴町誌編纂委員会『甲奴町誌』 1994年

 

神上〈こうのうえ〉城 岡山県真庭市樫東

 

別名:鴻殖城・神上堡・神山城

標高377m 比髙190m  

主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群

アクセス

 真庭市目木から県道327号を北上すると、目木川・余川合流点の向こう側に樫東集落が現れる。神上城は集落の北東側、目木川対岸の丘陵上にある。城の南側谷筋の道に入ると、やがて山腹に向かう山道がある。近年まで山の中腹に民家があったから、しっかりした道が延びている。

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  神上城は目木川に余川が合流する地点の北東側、鴻殖地区にある。目木川に迫りだした急崖の上に築かれている。

 遺構は東西に延びる尾根上200mに渡って広がっており、この尾根を遮断する2本の堀切によって3区分される。最もしっかりと普請されたところは目木川を見下ろす西端の1郭で、ここが主郭と見られる。

 主郭西寄りには櫓台と見られる小さな土壇がある。目木川の谷を見下ろす西端には定石通り土塁を盛り、その下方には堀切が刻まれているのだが、この堀切は切岸直下ではなく未加工の緩斜面を30mほど下ったところに築かれたものだ。堀切は両斜面に向けて大きく延ばされており、南斜面側ではこれに並べて五基からなる畝状竪堀群も残る。『美作古城史』の観察では「深さ三尺ないし五尺、長さ四十間の堀切三条」とあって、確認できた遺構の状況とは少し異なる。

 2・3郭はいずれも削平不十分で、曲輪面は自然地形に近く、わずかに切岸を造成した程度だ。2郭には「神上城跡 岡本氏」と刻んだ石碑、及び祠(「祖霊社 岡本氏」)が残る。曲輪西端の堀切面には武器として集積されたものか、人頭大から手のひら大の積み石が残る。同様な積み石は3郭でも見られる。城の東方には耕地跡を思わせる平坦面が続く。ここから南斜面中腹にかけて五輪塔を含む多数の墓、近年まで存続した集落の跡がある。

 

 天正9年(1581)10月、羽柴秀吉軍は吉川経家の守る鳥取城を陥落させ、翌年に入るとその主力が山陽方面に進出する。この年3月には「かし村さいしやう小屋」宛てに軍勢の乱妨狼藉等を禁ずる秀吉の禁制が出されている。この文書を載せる『作陽誌』の「神上堡」の欄には「余野・樫村土民構塞、相応」とあり、羽柴軍の進出に呼応して余野・樫村の土民が神上城に籠もったというから、当城はいわゆる「村の城」に該当するのだろうか。

 神上城主と伝わる岡本氏は神上城の西麓樫東の土豪で、同家に伝わる記録によれば、羽柴秀吉の中国出陣に際して、織田方に従っていた宇喜多秀家より軍監岩佐八郎右衞門、川端孫九郎、永田右衞門介が差し遣わされ、余野樫村の土豪岡本又左衛門尉らと共に神上城に籠もったという(『美作古城史』)。

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神上城2郭

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中腹に残る五輪塔

参考文献

 牧 祥三 『美作地侍戦国史考』 1987年

 寺坂五夫 『美作古城史』 作陽新報社 1977年

 正木輝雄 『新訂作陽誌』 作陽新報社 1975年