出雲街道(勝山宿ー溝口宿)を歩いた

 出雲街道は播磨国姫路から出雲国松江に至る街道。古代においては都と出雲を結ぶ官道であり、江戸時代には松江藩など諸藩の参勤交代の道でもあった。ネット上で「出雲街道を歩こう」の記事を見て興味を持ち、中国山地越えの部分を歩いてみた。

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ヤマレコ「出雲街道 美作勝山から伯耆溝口まで」より

 出発点の勝山宿。町並み保存地区は家ごとに独自のデザインの暖簾をかけた風情ある通りとなっている。その北端、神橋の道しるべには「南 左雲伯往来」と刻んであって、これから歩く出雲街道が左に伸びている。

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 勝山から低い峠を越えればやがて美甘渓谷の道となる。古い街道は切り立った川沿いを避けて中腹に付けられた高巻きの道となる。八反集落から中腹に登るのだが、登り口は荒れ果ていて入れず、急斜面をよじ登ってやっと街道に出た。

 中腹の道には茶屋跡や江戸時代の百姓一揆の首謀者の首がさらされたという「晒し場」など見所はあるのだが、幅1m余りもあった立派な街道はやがて獣道のような道になり、崩落した所まである。おまけに麓の国道への出口付近では笹や茅がはびこって、進退きわまるような厳しい藪こぎとなった。

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美甘宿

 美甘宿を過ぎると街道は平地を5~10m下に見下ろす山沿いの道。今は使われなくなっている所が多く、地元の皆さんの手入れによってやっと維持されている状態で、高齢化の果てに空き家が増え、手入れが行き届かず荒れてしまった部分もある。下図で赤線が山すそを離れた部分がそうだ。

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          赤線が出雲街道(美甘西方)

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山すそにつけられた出雲街道(平島下付近)

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新庄宿。街道は凱旋桜の並木道となる

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後鳥羽上皇後醍醐天皇配流の道は杉並木の道となっている

 1日目の宿泊地とした新庄宿を出ると嵐ヶ乢の峠越えの道。後鳥羽上皇隠岐に配流された時、この峠を越えたといい、杉並木の街道脇に上皇の歌碑が建つ。

 嵐ヶ乢を下ると戸数数戸の二ツ橋集落。ここから美作・伯耆国境の四十曲峠に向けて、浅い谷間の緩やかな登り道となる。峠を越えて下りに入ると急傾斜の尾根筋につづら折りの道がつけられており、その曲がりの数は四十回を超えそうだ。四十曲の名は決して誇張ではない。

 何故か国土地理院の地図にはすぐ脇の谷間に直線的な道が記されている(下図参照)。別の道があるのか、それとも道の位置がずれているだけなのか(まさかそんなことが)。四十曲の道を下った所に四十曲トンネルの出口があり、ここから2kmほどで次の板井原宿がある。

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板井原宿

 50年も昔、二つ橋の子供たちはこの峠を越えて板井原宿まで、3kmもの険しい山道を歩いて買い物や遊びに出掛けていたという。峠越えの道はかつて地域の人たちの生活道として利用されていたし、板井原も賑わっていたのだが、今や空き屋だらけとなってしまった。

 2日目は日野川沿いの根雨宿まで。

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根雨はおしどりの飛来地で、下水蓋のデザインにも。

 3日目、根雨を出るとすぐに間地峠越えの道となる。江戸時代、峠の上には往来する人を接待する茶屋が三軒もあって繁盛していたそうだ。峠を下って二部宿を過ぎれば再び日野川沿いの道。やがてゴールの溝口宿となる。

 出雲街道沿いには沢山の石碑・石仏が残る。初めて出会ったのは美甘だった。自然石に「馬頭観音」と「大日如来」の文字を刻んだ石仏(文字塔)が街道脇に建てられていた。馬頭観音は荷物を運んだ馬の安全や、死んだ馬の慰霊のためだったらしく、大日如来も牛馬の供養塔という。

 多かったのは地蔵菩薩で、二部宿の外れにあったのは六体の地蔵が並ぶ「六道地蔵」。ここでは錫杖を持つもの、両手を胸の前で合わせたものなど様々なポーズをとる。それぞれに意味を持つのだろうか。

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 左が「大日如来」右は「馬頭観音」         二部の六道地蔵 

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根雨宿入り口の石仏群

 

清常城 岡山県加賀郡吉備中央町上加茂

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 清常城は加茂川の谷を見下ろす比髙70mほどの丘陵上にある。西方には上加茂から加茂市場に至る丘陵伝いの道が伸びるから、この道を押さえる役割もあったものと思われる。規模はほぼ70m四方。丘頂の1郭(主郭)は25m×20mの規模で、曲輪の形がほぼ正方形に近く直線的に整えられているのをはじめ、各曲輪も同様に丁寧な普請となっている。

 城の南東隅、3郭西端に虎口が開く。敵兵が虎口に攻め込んだとしても、上方から虎口を見下ろす2郭と3郭側の両方向から攻撃を受けることになる。2郭西隅の入口でも同様に正面の1郭と2郭の双方から攻撃が可能だ。通路に屈折を設けることによって防御の工夫を凝らした縄張りとなっている。

 城の背後に連なる尾根を遮断する堀切は主郭の切岸直下ではなく、20mほど離れて築かれており、堀切との間は未加工のまま緩斜面が放置されている。これは背後の丘陵との間の距離を確保するためだろうか。

 3郭南下方から1郭下方にかけて帯状に曲輪が巡る。その一部は下方斜面側に土塁が盛ってあるから横堀と見ることが出来る。横堀西端は上記の堀切につながる。

 

 天正8年(1580)4月、宇喜多方に属する伊賀久隆(虎倉城主)を攻略するため、毛利輝元小早川隆景が備中竹ノ庄から備前国加茂へ陣替えした。4月13日、粟屋余十郎(元信)・神田宗四郎(元忠)ら輝元の近臣からなる攻撃軍が虎倉城の背後まで進撃した所で伊賀軍の襲撃を受け、寄せ手の大将粟屋余十郎をはじめ有力武将が討死。敗走する毛利軍は加茂市場近くまで伊賀軍の追撃を受けて四五十人の死者を出して退却するという大敗北を喫することになる。世に言う「加茂崩れ」である(桂岌圓覚書・虎倉物語)。清常城主郭には討死した粟屋余十郎の墓と伝えられる墓石も残る。

 戦いの舞台となった上加茂は北流する加茂川沿いの谷間で、川の西側丘陵上にある清常城はこの虎倉城攻めの際、毛利軍の本陣が置かれたと伝える。

 美作国祝山城在番中の湯原春綱に宛てた天正8年の2月1日付書状(差出人は若い輝元を補佐した吉川元春小早川隆景・福原貞俊・口羽通良の重臣四人、いわゆる「御四人」)には「伊賀左衛門尉(伊賀久隆)城山下迄無残令放火、(中略)、要害二ヶ所申付番衆指籠」(『閥閲録』巻115-2)とある。毛利軍が番衆を配置した「要害二ヶ所」がどの城を指しているのか不明だが、虎倉城まで3kmほどの地点にある清常城がその一つなのかもしれない。

 『加茂川の山城』では、伊賀氏の家臣河原四郎左衛門宅地跡が上加茂にあって、清常城が河原氏の居城であった可能性に言及している。河原氏は下加茂の鍋谷城主とも伝えるし、江戸初期にも加茂郷の土豪百姓の中に伊賀氏の遺臣という河原氏の名が現れる。 

 清常城は多くの陣城に比べしっかりした普請がなされているから、この指摘のように既存の城を毛利軍が陣城として使用した可能性がある。

 

参考文献

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典』33岡山県 1989年