出雲街道(勝山宿ー溝口宿)を歩いた

 出雲街道は播磨国姫路から出雲国松江に至る街道。古代においては都と出雲を結ぶ官道であり、江戸時代には松江藩など諸藩の参勤交代の道でもあった。ネット上で「出雲街道を歩こう」の記事を見て興味を持ち、中国山地越えの部分を歩いてみた。

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ヤマレコ「出雲街道 美作勝山から伯耆溝口まで」より

 出発点の勝山宿。町並み保存地区は家ごとに独自のデザインの暖簾をかけた風情ある通りとなっている。その北端、神橋の道しるべには「南 左雲伯往来」と刻んであって、これから歩く出雲街道が左に伸びている。

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 勝山から低い峠を越えればやがて美甘渓谷の道となる。古い街道は切り立った川沿いを避けて中腹に付けられた高巻きの道となる。八反集落から中腹に登るのだが、登り口は荒れ果ていて入れず、急斜面をよじ登ってやっと街道に出た。

 中腹の道には茶屋跡や江戸時代の百姓一揆の首謀者の首がさらされたという「晒し場」など見所はあるのだが、幅1m余りもあった立派な街道はやがて獣道のような道になり、崩落した所まである。おまけに麓の国道への出口付近では笹や茅がはびこって、進退きわまるような厳しい藪こぎとなった。

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美甘宿

 美甘宿を過ぎると街道は平地を5~10m下に見下ろす山沿いの道。今は使われなくなっている所が多く、地元の皆さんの手入れによってやっと維持されている状態で、高齢化の果てに空き家が増え、手入れが行き届かず荒れてしまった部分もある。下図で赤線が山すそを離れた部分がそうだ。

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          赤線が出雲街道(美甘西方)

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山すそにつけられた出雲街道(平島下付近)

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新庄宿。街道は凱旋桜の並木道となる

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後鳥羽上皇後醍醐天皇配流の道は杉並木の道となっている

 1日目の宿泊地とした新庄宿を出ると嵐ヶ乢の峠越えの道。後鳥羽上皇隠岐に配流された時、この峠を越えたといい、杉並木の街道脇に上皇の歌碑が建つ。

 嵐ヶ乢を下ると戸数数戸の二ツ橋集落。ここから美作・伯耆国境の四十曲峠に向けて、浅い谷間の緩やかな登り道となる。峠を越えて下りに入ると急傾斜の尾根筋につづら折りの道がつけられており、その曲がりの数は四十回を超えそうだ。四十曲の名は決して誇張ではない。

 何故か国土地理院の地図にはすぐ脇の谷間に直線的な道が記されている(下図参照)。別の道があるのか、それとも道の位置がずれているだけなのか(まさかそんなことが)。四十曲の道を下った所に四十曲トンネルの出口があり、ここから2kmほどで次の板井原宿がある。

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板井原宿

 50年も昔、二つ橋の子供たちはこの峠を越えて板井原宿まで、3kmもの険しい山道を歩いて買い物や遊びに出掛けていたという。峠越えの道はかつて地域の人たちの生活道として利用されていたし、板井原も賑わっていたのだが、今や空き屋だらけとなってしまった。

 2日目は日野川沿いの根雨宿まで。

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根雨はおしどりの飛来地で、下水蓋のデザインにも。

 3日目、根雨を出るとすぐに間地峠越えの道となる。江戸時代、峠の上には往来する人を接待する茶屋が三軒もあって繁盛していたそうだ。峠を下って二部宿を過ぎれば再び日野川沿いの道。やがてゴールの溝口宿となる。

 出雲街道沿いには沢山の石碑・石仏が残る。初めて出会ったのは美甘だった。自然石に「馬頭観音」と「大日如来」の文字を刻んだ石仏(文字塔)が街道脇に建てられていた。馬頭観音は荷物を運んだ馬の安全や、死んだ馬の慰霊のためだったらしく、大日如来も牛馬の供養塔という。

 多かったのは地蔵菩薩で、二部宿の外れにあったのは六体の地蔵が並ぶ「六道地蔵」。ここでは錫杖を持つもの、両手を胸の前で合わせたものなど様々なポーズをとる。それぞれに意味を持つのだろうか。

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 左が「大日如来」右は「馬頭観音」         二部の六道地蔵 

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根雨宿入り口の石仏群

 

清常城 岡山県加賀郡吉備中央町上加茂

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 清常城は加茂川の谷を見下ろす比髙70mほどの丘陵上にある。西方には上加茂から加茂市場に至る丘陵伝いの道が伸びるから、この道を押さえる役割もあったものと思われる。規模はほぼ70m四方。丘頂の1郭(主郭)は25m×20mの規模で、曲輪の形がほぼ正方形に近く直線的に整えられているのをはじめ、各曲輪も同様に丁寧な普請となっている。

 城の南東隅、3郭西端に虎口が開く。敵兵が虎口に攻め込んだとしても、上方から虎口を見下ろす2郭と3郭側の両方向から攻撃を受けることになる。2郭西隅の入口でも同様に正面の1郭と2郭の双方から攻撃が可能だ。通路に屈折を設けることによって防御の工夫を凝らした縄張りとなっている。

 城の背後に連なる尾根を遮断する堀切は主郭の切岸直下ではなく、20mほど離れて築かれており、堀切との間は未加工のまま緩斜面が放置されている。これは背後の丘陵との間の距離を確保するためだろうか。

 3郭南下方から1郭下方にかけて帯状に曲輪が巡る。その一部は下方斜面側に土塁が盛ってあるから横堀と見ることが出来る。横堀西端は上記の堀切につながる。

 

 天正8年(1580)4月、宇喜多方に属する伊賀久隆(虎倉城主)を攻略するため、毛利輝元小早川隆景が備中竹ノ庄から備前国加茂へ陣替えした。4月13日、粟屋余十郎(元信)・神田宗四郎(元忠)ら輝元の近臣からなる攻撃軍が虎倉城の背後まで進撃した所で伊賀軍の襲撃を受け、寄せ手の大将粟屋余十郎をはじめ有力武将が討死。敗走する毛利軍は加茂市場近くまで伊賀軍の追撃を受けて四五十人の死者を出して退却するという大敗北を喫することになる。世に言う「加茂崩れ」である(桂岌圓覚書・虎倉物語)。清常城主郭には討死した粟屋余十郎の墓と伝えられる墓石も残る。

 戦いの舞台となった上加茂は北流する加茂川沿いの谷間で、川の西側丘陵上にある清常城はこの虎倉城攻めの際、毛利軍の本陣が置かれたと伝える。

 美作国祝山城在番中の湯原春綱に宛てた天正8年の2月1日付書状(差出人は若い輝元を補佐した吉川元春小早川隆景・福原貞俊・口羽通良の重臣四人、いわゆる「御四人」)には「伊賀左衛門尉(伊賀久隆)城山下迄無残令放火、(中略)、要害二ヶ所申付番衆指籠」(『閥閲録』巻115-2)とある。毛利軍が番衆を配置した「要害二ヶ所」がどの城を指しているのか不明だが、虎倉城まで3kmほどの地点にある清常城がその一つなのかもしれない。

 『加茂川の山城』では、伊賀氏の家臣河原四郎左衛門宅地跡が上加茂にあって、清常城が河原氏の居城であった可能性に言及している。河原氏は下加茂の鍋谷城主とも伝えるし、江戸初期にも加茂郷の土豪百姓の中に伊賀氏の遺臣という河原氏の名が現れる。 

 清常城は多くの陣城に比べしっかりした普請がなされているから、この指摘のように既存の城を毛利軍が陣城として使用した可能性がある。

 

参考文献

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典』33岡山県 1989年

 

黒目城  岡山県津山市堀坂・新野山形

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 黒目城は加茂川の東岸、比髙60mほどの低丘陵に載る城で、丘頂部に広がる緩斜面の一部を使って築かれている。

 丘頂の主郭は全長55m幅20mほどのやや歪んだ長方形。全周を土塁で囲むが、曲輪内部は削平不十分で小起伏を残す。土塁外壁は丁寧に整えられた高さ2mほどの切岸。その下には横堀が巡るが、北斜面側で途切れる。

 主郭南側、横堀に架かる土橋を渡って主郭の土塁切れ目に上ってくる道があり、これが虎口と思われる。主郭南西側では横堀の下方に1基の堀切があって南西に延びる尾根を遮断し、南東側では二段構えの横堀になっている。 

 単郭、土塁・横堀囲み、曲輪の削平不十分という特徴から、合戦に際して構築された陣城と見られる。空堀の配置状況から見れば、西側から南側を正面とした城と言えそうだ。

 本城の西方、加茂川の対岸には毛利軍の拠点となった祝山城・鉢伏城があり、本城はちょうど川をはさんで向かい合う位置にある。祝山城では天正7年(1579)末から翌年にかけて毛利・宇喜多両軍の間で激しい戦闘が繰り返されていたから、『美作古城史』は本城は医王山攻撃の拠点として宇喜多方の築いた一夜陣と判断している。

 また同書は西麓の加茂川畔に小島地蔵と呼ばれる自然石があって、祝山攻防戦に際し宇喜多軍の武士小島二郎兵衛が戦死した場所という伝承を載せる。

 

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西側横堀。左手が主郭

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同じく西側の横堀

参考文献

 寺坂五夫 『美作古城史』作陽新報社 1977年 

琵琶甲城  島根県邑智郡邑南町下口羽

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 琵琶甲城は石見国邑智郡南部から安芸国高田郡北部にかけての国境地帯に勢力を有した高橋氏によって築かれたという。

 享禄3年(1529)頃、高橋氏が大内氏を裏切り尼子方に与したとして、毛利元就によって滅ぼされる。その遺領のうち口羽には元就の重臣志道広良の次男通良が配置され、以後口羽は石見進出の拠点となっている。口羽に移住した通良は口羽氏を名乗り、高橋氏時代の矢羽城を修築して琵琶甲城と称しこれを本拠としている。

 天文9年(1540)には尼子の大軍が吉田郡山城攻撃に向かう。その進攻ルートとなった江の川沿いの都賀や口羽では口羽氏ら毛利方との間で小規模な戦闘が行われたらしく、都賀上野(現邑智郡美郷町)の「上隠・下隠」は尼子軍の進撃の際、逃げ遅れた将兵が隠れていたところという伝承もある(羽須美村誌)。

 口羽は石見国の東端、出羽川が江の川に合流する地点にある。東と南は備後国に隣接し、山陰と山陽を結ぶ交通の拠点となっていた。琵琶甲城はその合流点を見下ろす丘陵上にあって、その規模は東西200m南北250mほど。遺構は丘頂部と東側中腹に広がる。

 丘頂の主郭(1郭)から北東に延びる稜線上には7段の曲輪が階段状に連なり、尾根先端の2郭下方には二基の堀切と一基の竪堀を備える。

 東斜面中腹の4郭とこれを巡る土塁・帯曲輪は三方土塁囲みの土居屋敷を思わせる姿であり、この曲輪群は居住空間として利用されたのかもしれない。遊歩道建設によって本来の登城路が不明瞭となっているが、宮尾山八幡宮から4郭を経て2郭へ上がってくる道があり、2郭に虎口が開かれていたようだ。ここからは階段状に連なる曲輪を順次経由して主郭へと向かう。

 主郭背後にある3郭では北西斜面側に5基の畝状竪堀群が、南斜面側に1基の竪堀が斜面を下る。3郭西側の尾根続きの部分には一段高い土壇があって、この上にはごく浅い堀切が刻まれており(図中a)、その外側の尾根上には防御施設は認められない。このaが主郭背後に備えた堀切と見るには余りにも貧弱で、奇妙な縄張りに思える。

 ある城址で主郭背後の堀切群が破壊され、駐車場とされていたのを見たことがあるが、この城も畝状竪堀群と見える部分が連続堀切の延長部分であれば主郭背後の防御施設にふさわしい規模と言える。そう考えればこれらの竪堀が3郭の縁から発生していることも説明がつきそうだ。堀切を潰して平坦面(曲輪)を造成したとすれば、口羽氏による改修の結果だろうか。

 なお、3郭北西斜面の畝状竪堀群は下方で合流する特殊なタイプのもの。槙尾城(2021年10月13日付ブログ)でも取り上げたように、このタイプの堀切・竪堀は高橋氏の勢力圏であった邑智郡南部の城に集中的に見られるから、高橋氏時代から存在していた可能性がある。

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琵琶甲城(東側から撮影)

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3郭(手前)と西端の土壇

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3郭南側の竪堀(下方から見上げたところ)

 参考文献

  羽須美村誌編纂委員会『羽須美村誌』 1987年 

  大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年

  島根県教育委員会 島根県中近世城館跡分布調査報告書 第1集 

                         『石見の城館跡』 1997年

ブランコに乗るメジロ

 定年退職後に始めた非常勤の仕事も退いて既に4年。自宅の庭を開墾して果樹や野菜を栽培したりして、空いた時間をつぶしている。

 居間の窓から庭を見ていると、団地の中のこの小さな庭にも様々な小動物がやってくる。この9月、うるさかった蝉の鳴き声がしなくなったと思っていたら、今度は毎夜コオロギの演奏。続いて夏の間現れなかったスズメがワラワラと群れてやってくるようになった。夜が明けるとまもなく賑やかに朝食の時間。庭の畑からはみ出して、半ば雑草と化した青じその実をついばんでいるらしい。

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青じその下で食事中のスズメ(〇印)

 スズメの餌になる前は私の酒のつまみだった(笑)。実はこの夏、青じその新しい食べ方を発明した。チーズを細長く切って青じその柔らかい葉で巻いて食べれば、しその香りとチーズの相性抜群。お陰でお酒がすすむこと。

 庭の中には薮椿や白の侘助椿があって、例年冬場になると花の蜜を求めてメジロがやってくる。それを邪魔するのがギャーギャーとうるさい鳴き声のヒヨドリ。先客のメジロを追っ払って蜜をあさり、花を落とす乱暴者だ。

 椿だけでは不足するからと、半分に割ったミカンを木の枝に刺しておくのだが、荒っぽいヒヨドリにかかるとすぐに下に落としてしまう。地面に落としたミカンは食べないからもったいないが捨てるしかない。

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最初に考えたのがぶら下げたアルミ線の揺れる餌台。
しかしミカンはヒヨドリに落とされてしまった。

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 今年1月に考えた工夫がミカンを紐にぶら下げる方法。身軽なメジロは揺れる餌につかまって器用に食べるのだが、体の大きいヒヨドリには苦手な餌台。居間の中からブランコに乗るメジロの姿が楽しめることになった。

 入れ替わり立ち替わり現れるメジロの中には小枝の上で仲良く身を寄せ合うカップルも。老夫婦二人だけの我が家の庭先で何ともお熱いこと。

 冬場にやってくる小鳥の中には名を知らない鳥も多い。茶色い羽根の鳥や、くっきりとした白と黒のものなど。この冬はこの子達の世話でもしてみようか。

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メジロカップ

 

槙尾城 島根県邑智郡邑南町上田

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 槙尾城は広島県と境を接する邑南町の南端、広島県境を目前にした長田集落を見下ろす丘陵上に築かれている。

 城は邑智郡南部に勢力を有した高橋氏によって南北朝時代に築かれたとされる。城の南わずか五百㍍には安芸国国境をなす直会すくえ峠(案内図参照)があって、この城は国境の峠を監視するには絶好の位置を占めていた。 

 天文9年(1540)には尼子の大軍がこの峠を越え、毛利氏の本拠郡山城の攻撃に向かったのだが、あえなく敗退する。このことから直会峠を越える道は尼子道と呼ばれるが、尼子軍の郡山城への進撃、また退却のルートはいくつかあり、各地に尼子道の伝承が残る。

 ただ、高橋氏は尼子軍進攻の10年ほど前の享禄3年(1529)頃、毛利元就によって滅ぼされている。その遺領のうち口羽には志道通良(のち口羽を名乗る)を配置して石見国進出の拠点とし、吉田郡山城への連絡拠点として槙尾城には児玉内蔵助を配していたから、郡山合戦時には毛利方の拠点となっていた。

 城の規模は東西100m南北100m程度。主郭を中心に3段構えに曲輪が配置される。土塁は主郭西端にすら盛られていないが、その一方、発達した堀切・竪堀で厳重に防御された城となっている。

 城の背後に当たる主郭西側鞍部には二重堀切が設けられているが、不鮮明で尾根を十分に遮断するものになっていない。後世の破壊によるものだろうか。この二重堀切を見下ろす小郭aは攻め上る敵兵を迎え撃つ足場としての郭で、尾根の南北両斜面に下ろした竪堀によって山腹に回り込む敵兵の動きを制限している。

 丘頂から発生する支尾根は不明瞭なものも含め5本。注目点はその全てを堀切・竪堀で遮断し防御していることだ。aと類似した構成を見せるのが北尾根のbで、両斜面に八の字状に下ろした竪堀が尾根伝いの攻撃に備える。

 本城で最大規模のものが北東尾根の二重堀切で、堀切の末端が合流するという特殊な形態を見せる。このような堀切・竪堀は高橋氏の勢力下にあった邑智郡南部を中心に分布(注1)しており、高橋氏の築城手法に特徴的なものと言える。従って本城の堀切・竪堀は高橋氏一族の在城時代に築かれていた可能性がある。

 南斜面に発生する3本の尾根はわずかな山腹の孕みに過ぎないような不明瞭なものだが、残さず掘りきっており、北東尾根の二重堀切から南斜面の堀切をつなぐ帯曲輪が南斜面の防御ラインとなる。

(注1)邑智郡南部で、下方斜面で合流する竪堀・堀切の見られる城としては、

    琵琶甲城(邑智郡邑南町下口羽)、 観音城(邑智郡邑南町雪田)、 二つ山城(邑智郡邑南町鱒淵)、

    本城(邑智郡邑南町下田所)、槙尾城(邑智郡邑南町上田)、高梨城(島根県邑智郡美郷町都賀行)がある。

 

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槙尾城(浄福寺から撮影)

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直会峠から長田方面を撮影。奥に見える山が槙尾城

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峠には国境を示す石碑「従是南 安芸国」がある

 参考文献

  羽須美村誌編纂委員会『羽須美村誌』 1987年 

  大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年

  島根県教育委員会 島根県中近世城館跡分布調査報告書 第1集 

                         『石見の城館跡』 1997年

  広島県 『広島県史』中世 通史Ⅱ 1984

三倉田城 岡山県美作市三倉田

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 三倉田城は美作三湯の一つ湯郷温泉から吉野川対岸に見上げる急崖の上に築かれている。城跡に登れば吉野川と梶並川の合流点に面した美作市中心街が、その背後には後藤氏の本拠三星城、一時期尼子氏の拠点となっていた林野城が見渡せる。

 急崖に囲まれた三倉田城の防御施設は尾根続きとなる北東側鞍部に集中する。この鞍部に刻まれた堀切(a)から東斜面にかけて刻まれた竪堀が攻め上る敵兵の山腹斜面に回り込む動きを制限している。aの堀切から尾根筋を上っていけば整然と並べ築かれた畝状竪堀群が現れる。この竪堀群上端に築かれた横堀(b)は攻め上る敵を迎撃す足場となったはずだ。登城路は確認出来ていないが、これらの竪堀群の間のどこかににつけられていたに違いない。

 竪堀群を過ぎると食い違いの土塁で守られた虎口曲輪(3郭)に入る。3郭は通路状をなす細長い曲輪であり、背後には高さ4mの切岸に守られた2郭が虎口部を真下に見下ろす。虎口を入ると通路は折り返して3郭に向かうのだが、そのまま直進すれば袋小路となって上方の2郭からの攻撃にさらされることになる。この地域の城の中では珍しく、防御の工夫の凝らされた虎口となっている。

 面白いのは2郭の虎口側が土塁囲みで折の入った端正な切岸に整形されているのに対し、西斜面側では切岸の造成すら不十分なまま放置されている点だ。

 主郭(1郭)に向かう通路は2郭の虎口脇から南へ、階段状に連なる小郭の脇を抜けて登っていく。丘頂の主郭を中心とした諸郭でも切岸の形成が不十分で、ここだけ見れば何とも安普請の城と見える。地形に即して歪んだ形の小さな曲輪が小さな段差で並び、土塁も盛っていないから、自然地形に近い状態とさえいえる。

 要するに土木工事の精力を虎口部分に集中させ、中核部の普請には無頓着だったということだ。

 三倉田城に関して『美作古城史』は城主広幡某、康安年中(1361−62)落城と伝える程度で事跡不詳とする。康安年中落城と言えば、山名時氏因幡から東美作に侵攻した時のことを指しているようだ。ただ現存する遺構は、発達した虎口部の構成から見る限り南北朝時代のものではなく、戦国末期に築城、あるいは改修されたものと思われる。

 いずれにせよこのような極端な志向性を持った縄張りからすれば、在地領主が継続的に使用してきた本拠の城ではなく、軍事的緊張状態の下で築かれた(あるいは改修された)陣城のように思われる。

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三倉田城(〇印)、林野城から撮影。

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三倉田城全景。手前は吉野川

参考文献

 寺坂五夫 『美作古城史』作陽新報社 1977年 

 美作国の山城編集委員会美作国の山城』 2010年



 

中山田城 広島県福山市熊野町

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 中山田城は中世の山田村(現在の福山市熊野町)中心部を見下ろす丘陵上に築かれている。城の遺構は階段状に並ぶ3段の曲輪と、尾根筋に当たる東西両側を防御する土塁・空堀からなる。

 図中3郭の虎口手前には二重の土塁が設けられ、登城路はその脇をすり抜けるように登ってくる。城郭の構造物で、城内が見透かされないように虎口外側に土塁を設ける場合があり、これを「茀かざし土居」と呼ぶ。逆に虎口内側に設けたものは「蔀しとみ土居」。面白いことに、幕末に各地で築造された西洋式城塞である「台場」の中で、鳥取県の由良台場がこの茀土居を備えている(下写真)。

 本城の場合茀土居に似ているが、背後にある3郭の方が土塁より高い位置にあるから、土塁は遮蔽効果よりも攻め上る敵兵を迎撃する拠点としての役割の方が大きかったかもしれない。土塁を楯に迎撃する守備兵は3郭からの援護を受けることもできたはずだ。

 この土塁脇を過ぎた登城路は虎口面を土塁で固めた3郭に導かれ、さらに2郭脇を抜けて主郭(1)へ向かう。

 主郭背後堀切面の土塁は削り出しによるもののようで、その外壁面は切岸として整形したものではなく、自然の斜面をそのまま城壁として利用しているように見える。主郭背後への備えにしてはなおざりだなあと思いながら下って行くと、鞍部には二重堀切とこれに隣接する畝状竪堀群が東斜面側に6基、西斜面側に5基築かれていた。長さは5~10mとやや小規模なものだ。

 守るべき曲輪が数郭に過ぎない小規模城郭だが、意外にも工夫を凝らした見所の多い縄張りとなっている。

 江戸期の地誌『西備名区』では中山田村の欄に「山田城」の名で載り、城主を渡辺刑部左衛門尉忠とする。「備後古城記」は観応年間(1350-52)の城主として渡辺忠の名を挙げており、すでに南北朝末期には存在していたことになるが、草戸を拠点としていた渡辺氏が山田村に進出し一乗山城を築くのは永正年中(1504-21)とされるから、当城の築城も一乗山城と前後する時期ではなかろうか。

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中山田城全景

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由良台場の茀土居(〇印、現地案内板を撮影)

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主郭

参考文献

 備陽史探訪の会『続山城探訪』2005年

 田口義之 『備後の山城と戦国武士』葦陽文庫 1997年

青ヶ城 広島県福山市郷分町

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 青ヶ城は芦田川沿いに付けられていた中世山陽道を見下ろす丘陵上にある。3つのピーク(A・B・C)にまたがって築かれた城の規模は東西400m南北幅150m。備後南部では神辺城に匹敵する規模を有する城である。

 標高235mの丘頂を占める曲輪群(A)のうち、長辺40m程の規模をもつ1郭、わずかな段差で連なる2・3郭が本城の中核部をなす区域で、これを帯曲輪が3段構えに取り囲む。本城の中では一番しっかり普請された部分だ。

 B・Cの曲輪群でも同心円状に曲輪を重ねているが、曲輪の肩が流れて遺構は不明瞭であり、各所に未加工の緩斜面を残す。Aから芦田川に向けて延びる尾根でも同様に未加工の斜面を取り込みながら数段の曲輪が築かれている。このうちbに見られる石垣は、ここに祀られた小祠に由来する後世のものらしい。

 このように確かに規模は大きいのだが、塁線を整えて切岸を急角度に加工し、要所に土塁を盛るといった丁寧な普請はなされていないから、土木工事量は城の規模ほどに大きいものではないようだ。全体的に見て素朴な縄張りの城と言えるが、注目されるのは城の南北両端を遮断する二重堀切が不釣り合いに大規模であることだ。何らかの軍事的緊張下で拡張・追加されたもののように思われる。 

 図中aは狐平と呼ばれる所で、周囲を尾根に囲まれた浅い谷間となる。江戸期の地誌「備陽六郡志」によると民家四五軒があって、この場所に皆内出雲守家老の屋敷があったことを伝える。ここには崩れた土塀の跡が残り、何十年か前までは民家があったようだ。

 この谷間に残る土塁・空堀は北側の尾根に面した部分で切岸(内側が低くなっている)に変わるのだが、谷底部分を囲い込むように築かれているから害獣の侵入を阻むための猪垣と見られる。なお西側面の空堀は背後の尾根上に伸び、やがて途切れる。弱点となる猪垣背後の切岸部分を補強しているのかもしれない。

 『西備名区』は、竹田村の大内山城(2021年9月20日付ブログ)に居た皆内出雲守景兼が、天文のはじめ青ヶ城を築いてこれに移ったとするが、青ヶ城の欄では出雲兼景が青ヶ城に移ったと記すのは単純ミスらしい。いずれにしても土豪レベルの領主と思われる皆内氏がこれほどの規模の城を築いたというのは信じがたい。城番として青ヶ城を守備していたのだろうか。

 

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青ヶ城全景。手前は草木集落

参考文献

 備陽史探訪の会『山城探訪』福山周辺の山城30選 1995年

大内山城 広島県福山市神辺町八尋・竹田

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 神辺平野の周囲には平野を取り囲むように多数の城が残されている。岡山県境に近い平野の東端に位置するのがこの大内山城である。城名の「大内」は山麓の地名に由来するものだろうが、大内( おーち)とは大手の訛音で、城の大手を意味するとの見方もある(神辺町史)。

 丘頂部は主郭とその全周を囲む腰曲輪の二段構成。全体として南北90mに及ぶ大型の曲輪だが、削平痕の明瞭な部分はわずかで、未加工の緩斜面を取り込みながら造成されている。

 一方、腰曲輪を囲む切岸は高さ2m前後で比較的しっかりと造成されたものだ。切岸下には緩傾斜の帯状地形が伸びるが、曲輪として成形したものはわずかで、多くは切岸形成時に自然発生したもののようだ。

 曲輪の不鮮明さと対照的に、派生する尾根への防御には細かな工夫を施している。西尾根から主郭に入る通路は、尾根上の小郭を抜け、両斜面に下ろした竪堀によって狭められた通路を通らなければ主郭に入れないように構成されているし、南端の虎口でも東西両斜面に竪堀を下ろすことによって敵兵の行動を制限している。東斜面の竪堀脇にある小郭aは、山腹に回り込む動きに備えたのもので、竪堀に面して土塁を備える。さらに南西尾根基部では、尾根伝いに進攻する敵兵が切岸に迫るのを阻止するように5基の竪堀が尾根を切り裂いている。

 大まかにいえば、本城で明瞭な遺構は腰曲輪を囲む切岸と竪堀群だけだ。長期間継続して使用された城とは考えにくく、従ってこの城は砦・陣城といった類いの城のように思われる。

 天文10年(1541)郡山合戦に敗れた尼子軍が撤退すると、今度は大内義隆が芸備の国人たちを率いて尼子氏の本拠月山富田城を攻撃するが、あえなく敗退する。天文12年のことである。これを契機に神辺城主山名理興をはじめ、大内方に転じていた備後の国人たちは再び尼子氏と結ぶことになった。そののち大内軍の攻撃を受けた山名理興は天文18年9月神辺城を脱出して出雲に逃れ、城は落城する。

 江戸末期の地誌『福山志料』で大内山城主と伝えるのは皆内かいち氏(あるいは家市氏)。『西備名区』では、皆内出雲守景兼が大永の頃(1521-28)大内山城に居住したのち、子の式部大輔に跡を譲って郷分村の青ヶ城に移ったという。さらに式部大輔の子左馬介定兼は尼子方に属したのち、大内家に帰服して郷分より帰住したとするのは、この時期の混乱した情況を反映した動きのようだ

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主郭北西側の帯曲輪と竪堀

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西斜面の竪堀

参考文献

 神辺町教育委員会 『神辺町史』 1972年