清常城 岡山県加賀郡吉備中央町上加茂

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 清常城は加茂川の谷を見下ろす比髙70mほどの丘陵上にある。西方には上加茂から加茂市場に至る丘陵伝いの道が伸びるから、この道を押さえる役割もあったものと思われる。規模はほぼ70m四方。丘頂の1郭(主郭)は25m×20mの規模で、曲輪の形がほぼ正方形に近く直線的に整えられているのをはじめ、各曲輪も同様に丁寧な普請となっている。

 城の南東隅、3郭西端に虎口が開く。敵兵が虎口に攻め込んだとしても、上方から虎口を見下ろす2郭と3郭側の両方向から攻撃を受けることになる。2郭西隅の入口でも同様に正面の1郭と2郭の双方から攻撃が可能だ。通路に屈折を設けることによって防御の工夫を凝らした縄張りとなっている。

 城の背後に連なる尾根を遮断する堀切は主郭の切岸直下ではなく、20mほど離れて築かれており、堀切との間は未加工のまま緩斜面が放置されている。これは背後の丘陵との間の距離を確保するためだろうか。

 3郭南下方から1郭下方にかけて帯状に曲輪が巡る。その一部は下方斜面側に土塁が盛ってあるから横堀と見ることが出来る。横堀西端は上記の堀切につながる。

 

 天正8年(1580)4月、宇喜多方に属する伊賀久隆(虎倉城主)を攻略するため、毛利輝元小早川隆景が備中竹ノ庄から備前国加茂へ陣替えした。4月13日、粟屋余十郎(元信)・神田宗四郎(元忠)ら輝元の近臣からなる攻撃軍が虎倉城の背後まで進撃した所で伊賀軍の襲撃を受け、寄せ手の大将粟屋余十郎をはじめ有力武将が討死。敗走する毛利軍は加茂市場近くまで伊賀軍の追撃を受けて四五十人の死者を出して退却するという大敗北を喫することになる。世に言う「加茂崩れ」である(桂岌圓覚書・虎倉物語)。清常城主郭には討死した粟屋余十郎の墓と伝えられる墓石も残る。

 戦いの舞台となった上加茂は北流する加茂川沿いの谷間で、川の西側丘陵上にある清常城はこの虎倉城攻めの際、毛利軍の本陣が置かれたと伝える。

 美作国祝山城在番中の湯原春綱に宛てた天正8年の2月1日付書状(差出人は若い輝元を補佐した吉川元春小早川隆景・福原貞俊・口羽通良の重臣四人、いわゆる「御四人」)には「伊賀左衛門尉(伊賀久隆)城山下迄無残令放火、(中略)、要害二ヶ所申付番衆指籠」(『閥閲録』巻115-2)とある。毛利軍が番衆を配置した「要害二ヶ所」がどの城を指しているのか不明だが、虎倉城まで3kmほどの地点にある清常城がその一つなのかもしれない。

 『加茂川の山城』では、伊賀氏の家臣河原四郎左衛門宅地跡が上加茂にあって、清常城が河原氏の居城であった可能性に言及している。河原氏は下加茂の鍋谷城主とも伝えるし、江戸初期にも加茂郷の土豪百姓の中に伊賀氏の遺臣という河原氏の名が現れる。 

 清常城は多くの陣城に比べしっかりした普請がなされているから、この指摘のように既存の城を毛利軍が陣城として使用した可能性がある。

 

参考文献

 加茂川町教育委員会『加茂川の山城』1979年

 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典』33岡山県 1989年