黒目城  岡山県津山市堀坂・新野山形

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 黒目城は加茂川の東岸、比髙60mほどの低丘陵に載る城で、丘頂部に広がる緩斜面の一部を使って築かれている。

 丘頂の主郭は全長55m幅20mほどのやや歪んだ長方形。全周を土塁で囲むが、曲輪内部は削平不十分で小起伏を残す。土塁外壁は丁寧に整えられた高さ2mほどの切岸。その下には横堀が巡るが、北斜面側で途切れる。

 主郭南側、横堀に架かる土橋を渡って主郭の土塁切れ目に上ってくる道があり、これが虎口と思われる。主郭南西側では横堀の下方に1基の堀切があって南西に延びる尾根を遮断し、南東側では二段構えの横堀になっている。 

 単郭、土塁・横堀囲み、曲輪の削平不十分という特徴から、合戦に際して構築された陣城と見られる。空堀の配置状況から見れば、西側から南側を正面とした城と言えそうだ。

 本城の西方、加茂川の対岸には毛利軍の拠点となった祝山城・鉢伏城があり、本城はちょうど川をはさんで向かい合う位置にある。祝山城では天正7年(1579)末から翌年にかけて毛利・宇喜多両軍の間で激しい戦闘が繰り返されていたから、『美作古城史』は本城は医王山攻撃の拠点として宇喜多方の築いた一夜陣と判断している。

 また同書は西麓の加茂川畔に小島地蔵と呼ばれる自然石があって、祝山攻防戦に際し宇喜多軍の武士小島二郎兵衛が戦死した場所という伝承を載せる。

 

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西側横堀。左手が主郭

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同じく西側の横堀

参考文献

 寺坂五夫 『美作古城史』作陽新報社 1977年 

琵琶甲城  島根県邑智郡邑南町下口羽

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 琵琶甲城は石見国邑智郡南部から安芸国高田郡北部にかけての国境地帯に勢力を有した高橋氏によって築かれたという。

 享禄3年(1529)頃、高橋氏が大内氏を裏切り尼子方に与したとして、毛利元就によって滅ぼされる。その遺領のうち口羽には元就の重臣志道広良の次男通良が配置され、以後口羽は石見進出の拠点となっている。口羽に移住した通良は口羽氏を名乗り、高橋氏時代の矢羽城を修築して琵琶甲城と称しこれを本拠としている。

 天文9年(1540)には尼子の大軍が吉田郡山城攻撃に向かう。その進攻ルートとなった江の川沿いの都賀や口羽では口羽氏ら毛利方との間で小規模な戦闘が行われたらしく、都賀上野(現邑智郡美郷町)の「上隠・下隠」は尼子軍の進撃の際、逃げ遅れた将兵が隠れていたところという伝承もある(羽須美村誌)。

 口羽は石見国の東端、出羽川が江の川に合流する地点にある。東と南は備後国に隣接し、山陰と山陽を結ぶ交通の拠点となっていた。琵琶甲城はその合流点を見下ろす丘陵上にあって、その規模は東西200m南北250mほど。遺構は丘頂部と東側中腹に広がる。

 丘頂の主郭(1郭)から北東に延びる稜線上には7段の曲輪が階段状に連なり、尾根先端の2郭下方には二基の堀切と一基の竪堀を備える。

 東斜面中腹の4郭とこれを巡る土塁・帯曲輪は三方土塁囲みの土居屋敷を思わせる姿であり、この曲輪群は居住空間として利用されたのかもしれない。遊歩道建設によって本来の登城路が不明瞭となっているが、宮尾山八幡宮から4郭を経て2郭へ上がってくる道があり、2郭に虎口が開かれていたようだ。ここからは階段状に連なる曲輪を順次経由して主郭へと向かう。

 主郭背後にある3郭では北西斜面側に5基の畝状竪堀群が、南斜面側に1基の竪堀が斜面を下る。3郭西側の尾根続きの部分には一段高い土壇があって、この上にはごく浅い堀切が刻まれており(図中a)、その外側の尾根上には防御施設は認められない。このaが主郭背後に備えた堀切と見るには余りにも貧弱で、奇妙な縄張りに思える。

 ある城址で主郭背後の堀切群が破壊され、駐車場とされていたのを見たことがあるが、この城も畝状竪堀群と見える部分が連続堀切の延長部分であれば主郭背後の防御施設にふさわしい規模と言える。そう考えればこれらの竪堀が3郭の縁から発生していることも説明がつきそうだ。堀切を潰して平坦面(曲輪)を造成したとすれば、口羽氏による改修の結果だろうか。

 なお、3郭北西斜面の畝状竪堀群は下方で合流する特殊なタイプのもの。槙尾城(2021年10月13日付ブログ)でも取り上げたように、このタイプの堀切・竪堀は高橋氏の勢力圏であった邑智郡南部の城に集中的に見られるから、高橋氏時代から存在していた可能性がある。

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琵琶甲城(東側から撮影)

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3郭(手前)と西端の土壇

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3郭南側の竪堀(下方から見上げたところ)

 参考文献

  羽須美村誌編纂委員会『羽須美村誌』 1987年 

  大和村誌編纂委員会『大和村誌』 1981年

  島根県教育委員会 島根県中近世城館跡分布調査報告書 第1集 

                         『石見の城館跡』 1997年