抜舞城  島根県鹿足郡吉賀町抜月

別名 向真日城

標高350m、比高100m

主な遺構 堀切・竪堀

アクセス

 中国縦貫自動車道六日市ICから高津川に沿って国道187号を北へ。七日市を過ぎて1km、左折して高津川を渡れば右手の丘に抜舞城がある。案内図に示した〇印付近から城の方角を見定めて登る。

  

 高津川を見下ろす小丘に築かれた城は丘頂部の1郭と堀切を挟んで東尾根上の2郭からなる。1郭内部は所々削平されている所はあるにしても、全体としては未加工の緩斜面が広がっているだけだから、丘頂を取り囲む急角度の切岸と堀切が無ければこれを城跡と判断することは難しい。

 曲輪の整地が進んでいないのは、立ち木を伐採し根株を掘り起こす作業には、切岸の造成よりも大きな労力と時間が必要だったからに違いない。このようなことからごく短期間使用されただけの陣跡のように思える。

 1郭北側の竪堀群は整然と並べ築かれたものではなく、東寄りのa・bは竪堀というより緩斜面に土塁を並べた形となっているから、畝状竪堀群と呼ぶには戸惑いがある。

 

 天文20年(1551)大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、同23年津和野城(三本松城)に拠る吉見氏の攻撃を始めた。陶の別働隊である江良弾正らの軍勢が周防山代方面より進攻し、吉見方に属した吉賀の諸城を攻撃しており、抜舞城では毛利に援軍を乞うたと伝える。

北斜面の竪堀群

南西側堀切

 

参考文献

廣田八穂『西石見の豪族と山城』1985年

六日市町教育委員会六日市町史』1981年