標高300m、比高75m(ダム完成以前)
主な遺構 土塁・堀切・井戸
アクセス
三良坂市街地から県道78号を東に進むとのぞみが丘の住宅団地に入る。団地に入ったところで右折し灰塚大橋を目指す。城跡は橋の手前、灰塚湖にせり出した半島状の丘にある。


「福山城」は広島県内に4カ所あって、当城はそのうち一番規模の小さい城だ。
現在の福山城は灰塚ダムの完成によって湖に浮かぶ姿となったのだが、ダム完成以前は蛇行して流れる上下川に三方を囲まれた城であり、川沿いには民家が点在していた。
主郭(1)はいくつかの小区画に分かれるが、全体として全長80m幅20~25m。背後に連なる尾根は三重堀切で遮断し、30mほど先に不明瞭な堀切がもう1基刻まれていた。1郭北西側には虎口部をなす2・3郭、北側には堀切を挟んで4段からなる小郭が連なる。
登城路は北麓から4郭につけられていたものと思われる。通路はここから中央堀切の脇を抜けて主郭西下方の3郭へと伸び、さらに二度折り返して主郭へ入る。この道筋の至る所に横矢が掛かり、なかなか巧妙な縄張りといえる。
当城の東方2kmには萩原城があって、江戸期の備後国地誌「西備名区」は当城と萩原城の城主を共に広沢元家とする。一方、広島藩の地誌『芸藩通志』は福山城を「萩原城の子城」とするだけで、城主名を記さない。
広沢元家は南天山城主和智誠春の弟にあたる人物だ。初め久豊を名乗り、田利の赤城山城を本拠とする田利氏を継いで名を元家と改めている。元家は本拠を赤城山城からこの福山城へ、さらに萩原城へ移し、城下の集落名によって湯谷(柚谷)氏を名乗ることになる(『吉舎町史』)。
永禄11年(1568)、元家は兄和智誠春と共に毛利元就の長男隆元死亡の責任を問われて捕らえられ、翌年幽閉された厳島で殺害されている。


(国土地理院 地図・航空写真閲覧サービスより)
参考文献
「西備名区」 『備後叢書』東洋書院 1990年
吉舎町史編纂委員会『吉舎町史』 1988年
『灰塚ダム湖とその周辺の生活』1998年