標高555m 比高300m
主な遺構:土塁・横堀・竪堀
アクセス
安芸高田市街から高宮方面へ向け県道326号を北へ。院内峠を越えて下っていくと院内集落入口を示す案内板がある。ここを右折して金口川沿いに進むと道を塞ぐ害獣除けの鉄柵がある。ここが登り口だ。まず金口川最上流のため池を目指す。ため池の堰堤南端から南に向けて赤いテープを目印に登る。初めはわずかな踏み跡程度だが、やがてはっきりした道に変わる。山頂まで1時間程度。
風越山は天文9年(1540)の郡山合戦で尼子軍の築いた陣城である。この年出雲から石見国東部を経由して進攻した尼子軍は、9月4日郡山城の北西2.5kmにある風越山に本陣をおいたが、9月23日には郡山城に向かい合う青山・光井山に本陣を移す。従って風越山はわずか20日ほどの間本陣とされたに過ぎない。
風越山城は中国自動車道の高田ICの南1kmほど、風越山山頂一帯に残る。風越山を初めて訪れたのはもう30年近く前。その時は城の西側を流れる大峠川の谷から登ったのだが、山火事の後で舞い上がる灰や煤に悩まされながら山頂をめざしたことを思い出す。ただそのお陰で藪に覆われていた城跡がきれいに姿を現していたから、ラッキーと言えばラッキーだった。
今回登ったのは東側の院内から。毛利家文書の「郡山城諸口合戦注文」に「院内衆」が風越山付近で尼子勢1人を討ち取ったことが記されており、この院内でも村人が尼子の補給路封鎖に加わっていたようだ。
登り口の院内から川沿いに上って行くと最上流にため池がある。ため池の堰堤南端から尾根伝いに登っていけば、やがて城跡北端の堀切が現れる。城の遺構は山頂部のA・B・C3つのピークにまたがり、南北400m東西200mの範囲に広がる。丘頂部に広がる緩斜面をほとんど未加工のまま土塁・横堀で囲んでしつらえた城だ。 標高が一番高いのは三角点のあるAだが、最も丁寧な普請が見られるのはBで、これが主郭とみられる。
山頂部を囲い込む土塁・空堀は敵の攻撃に備えて巧妙に折れ曲がり、要所には竪堀が刻まれる。Aの北東端でいえば、曲輪を囲む横堀が城内に取り込まれて土塁囲みの虎口曲輪とすることで、二段構えの厳重な防御態勢を築いている。
参考文献
吉田町教育委員会『史跡毛利氏城跡保存管理計画策定報告書』 1988年
表 邦男 『広島の中世城館を歩く』渓水社 2021年